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その教線は荊州・五台山などに及んだが、後世まで都を離れた天台山を中心に、華厳教学と共に中国仏教の二大思想として展開し、六祖荊渓[[たんねん|湛然]]は[[けごんしゅう|華厳宗]]と[[ほっそうしゅう|法相宗]]を意識して天台学を宣揚し、無情のものにまで[[ぶっしょう|仏性]]を認める[[しつうぶっしょう|悉有仏性]]説をも説くに至った。唐末に兵乱で衰えた仏教も北宋代に復興し、天台宗では義通・知礼・仁岳系と源清・慶照・智円系とが緻密な教学論争を行い、70年に及ぶ山家(さんげ)・山外(さんがい)の論争に展開した。明代以後は禅や浄土との融合がみられるようになった。 | その教線は荊州・五台山などに及んだが、後世まで都を離れた天台山を中心に、華厳教学と共に中国仏教の二大思想として展開し、六祖荊渓[[たんねん|湛然]]は[[けごんしゅう|華厳宗]]と[[ほっそうしゅう|法相宗]]を意識して天台学を宣揚し、無情のものにまで[[ぶっしょう|仏性]]を認める[[しつうぶっしょう|悉有仏性]]説をも説くに至った。唐末に兵乱で衰えた仏教も北宋代に復興し、天台宗では義通・知礼・仁岳系と源清・慶照・智円系とが緻密な教学論争を行い、70年に及ぶ山家(さんげ)・山外(さんがい)の論争に展開した。明代以後は禅や浄土との融合がみられるようになった。 | ||
2017年12月23日 (土) 17:14時点における最新版
天台宗
中国の天台智者大師智顗を高祖とし、比叡山を開創した伝教大師最澄を宗祖とする日本の宗派。
「法華円宗」「天台法華宗」とも称する。
中国天台
智顗は慧思から法華経の根本教義を承けて、浙江省台州の天台山で実修と思索の末、理論面と実践面の教観双修に立って、全仏教を整理統摂した。五時八教の教相判釈(教判)を組織して、仏教全般を再編成した。
これは、蔵・通・別・円の四教と空・仮・中の三観を綱格として、「一心三観」、「十如是」、「十界互具」、「一念三千」、「十乗観法」「性具説」などを説き、中国仏教の根幹を形成した。
その教線は荊州・五台山などに及んだが、後世まで都を離れた天台山を中心に、華厳教学と共に中国仏教の二大思想として展開し、六祖荊渓湛然は華厳宗と法相宗を意識して天台学を宣揚し、無情のものにまで仏性を認める悉有仏性説をも説くに至った。唐末に兵乱で衰えた仏教も北宋代に復興し、天台宗では義通・知礼・仁岳系と源清・慶照・智円系とが緻密な教学論争を行い、70年に及ぶ山家(さんげ)・山外(さんがい)の論争に展開した。明代以後は禅や浄土との融合がみられるようになった。
日本天台
日本における天台宗は、最澄が東大寺で受戒後、比叡山にこもり天台学を志したことに始まる。入唐後、806年(延暦25年)比叡山に2人の年分度者(公認の僧)勅許により公認された。
最澄は入唐して天台仏教(円教)のほか菩薩戒・密教・牛頭禅(ごずぜん)を相承し、円教の止観業と密教の遮那業を叡山学生の教育制度とし、法相宗徳一との三乗と一乗の論争を通じて大乗菩薩戒を提唱し、滅後勅許されて以後日本仏教は菩薩戒が主流となった。
門下の円仁・円珍の入唐求法(ぐほう)により密教は充実し、安然によって台密が大成され、回峰行を始めた相応の奏請により、866年(貞観8年)最澄に伝教(でんぎょう)大師、円仁に慈覚(じかく)大師のわが国初の大師号が追贈された。
門流
18世天台座主(ざす)良源は比叡山を中興し、門下の源信・覚運の門流は恵心流・檀那流の恵檀二流に分れて口伝法門に展開し、覚運・皇慶の法系は川流(かわのりゆう)と谷流(たにのりゆう)の密教として諸流を生じた。
良源没後、その門流に追われて円珍系は園城寺に入り、山門(比叡山延暦寺)と寺門(園城寺)の対立は後世まで続く、円仁が伝えた五台山の念仏は常行三昧とされ、源信らにより教義づけられて法華信仰と調和した叡山浄土教となり、鎌倉浄土教の諸師を輩出させた。
また鎌倉仏教の栄西・道元・日蓮も天台を学んだ学匠であり、室町期には円戒と念仏を双修した真盛の戒称(戒律と念仏)二門の法義が成立した。
1571年(元亀2年)織田信長の焼討に焼失した比叡山の堂舎は豊臣秀吉や徳川家の力で再建され、関東の学山により教学は再興される。