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だいじょうきしんろん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

大乗起信論 一巻

馬鳴菩薩造
梁西印度三蔵法師真諦

    〔帰敬偈〕

  尽十方の、最勝業の遍知にして、
  色の無礙自在なる 救世の大悲者と。
  及び彼の身の体・相なる 法性真如海にして
  無量功徳の蔵たるものと 如実修行等に帰命す。
  衆生をして 疑いを除き邪執を捨て、
  大乗の正信を起こして、仏種を断ぜざらしめんと欲するが為の故なり。

本 論


 論じて曰く、法の能く摩訶衍の信根を起こす有り。是の故に応に説くべし。
 説に五分有り。云何が五と為す。一には因縁分、二には立義分、三には解釈分、四には修行信心分、五には勧修利益分なり。

第一章 因縁分


  〔一 八種の因縁〕
 初めに因縁分を説かん。
 問うて曰く、何の因縁有りて此の論を造るや。
 答えて曰く、是の因縁に八種有り。云何が八と為す。
 一には因縁総相なり。謂う所は、衆生をして一切の苦を離れて究竟の楽を得しめんが為にして、世間の名利恭敬を求むるには非ざるが故なり。
 二には如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正しく解して謬らざらしめんと欲するが為の故なり。
 三には善根の成熟せる衆生をして、摩訶衍の法に於いて堪任(かんにん)して不退信ならしめんが為の故なり。
 四には善根の微少(みしょう)なる衆生をして信心を修習せしめんが為の故なり。
 五には方便を示して悪業のを消し、善く其の心を護りて、癡慢を遠離して邪網を出でしめんが為の故なり。
 六には止観を修習することを示して、〔大乗の修行者たちをして〕凡夫・二乗の心過を対治せしめんが為の故なり。
 七には專念の方便を示して仏前に生ぜしめ、必定して信心を退せざらしめんが為の故なり。
 八には利益を示して修行を勧めんが為の故なり。
 是の如き等の因縁有り、所以に論を造る。

  〔二 対告衆生の機根に関する問答往復〕
 問うて曰く、修多羅の中に具(つぶ)さに此の法有るに、何ぞ重ねて説くを須(もち)うるや。
 答えて曰く、修多羅の中に此の法有りと雖も、衆生の根・行の等しからざると、受解(じゅげ)の縁別なるとを以てなり。
 謂う所は、如来の在世には衆生利根にして、能説の人も色心の業勝れたれば、円音(えんとん)一たび演(の)ぶるときは異類等しく解して、則ち論を須(もち)いず。〔しかるに〕如来の滅後の若きは、或いは衆生の能く自力を以て広く聞きて解を取る者有り、或いは衆生の亦た自力を以て少しく聞きて多く解する者有り、或いは衆生の自心の力無ければ、広論に因りて解を得る者有り、自ら衆生の復、広論の文の多きを煩(はん)と為すを以て、心に総持の少文にして多義を摂するを楽(ねご)うて能く解を取る者有り。
 是の如くなれば、此の論は、如来の広大なる深法の無辺の義を総摂せんと欲するが為の故に、応に此の論を説くべし。

第二章 立義分


 已に因縁分を説けり。次に立義分を説かん。
 摩訶衍とは、総説するに二種有り。云何が二と為す。一には法、二には義なり。
 言う所の法とは、謂く衆生心なり。是の心は則ち一切の世間法と出世間法とを摂す。此の心に依りて摩訶衍の義を顕示するなり。何を以ての故に。是の心の真如の相は、即ち摩訶衍の体を示すが故なり。是の心の生滅因縁の相は、能く摩訶衍の自体ととを示すが故なり。
 言う所の義とは、則ち三種有り。云何が三と為す。一には体大、謂く一切法の真如は平等にして増減せざるが故なり。二には相大、謂く如来蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。三には用大、能く一切の世間と出世間との善の因果を生ずるが故なり。
 一切の諸仏の本と乗ぜし所なるが故なり。一切の菩薩も皆、此の法に乗じて如来地に到るが故なり。

第三章 解釈分


 已に立義分を説けり。次に解釈分(げしゃくぶん)を説かん。
 解釈分に三種有り。云何が三と為す。一には正義を顕示す。二には邪執を対治す。三には道に発趣する相を分別す。

     〔第一節 顕示正義〕

 正義を顕示すとは、一心の法に依りて二種の門有り。云何が二と為す。一には心真如門、二には心生滅門なり。是の二種の門は皆、各(オノオノ)一切の法を総摂(ソウショウ)す。此の義は云何。是の二門は相い離れざるを以ての故なり。

  〔一 心真如門〕

 〔1 無分別の境涯としての心真如〕
 心真如とは即ち是れ一法界にして、大総相(だいそうそう)、法門の体なり。謂う所は心性の不生不滅なり。一切の諸法は唯だ妄念に依りて差別有り、若し心念を離るれば、則ち一切の境界の相無し。是の故に、一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心(しん)縁(えん)の相を離れ、畢竟平等にして変異有ること無く、破壊す可からず、唯だ是れ一心なるのみなるが故に真如と名づく。
 一切の言説は仮名にして実無く、但だ妄念に随(したが)うのみにして不可得(ふかとく)なるを以ての故に、真如と言うも亦た相有ること無し。謂く言説の、言に因りて言を遣(や)るなり。
 此の真如の体は遣る可きもの有ること無し。一切の法は悉(ことご)く皆、真なるを以ての故なり。亦た立つ可きものも無し。一切の法は皆、同じく如なるを以ての故なり。当(まさ)に知るべし、一切の法は説く可からず念ず可からざるが故に、名づけて真如と為す、と。
 問うて曰く、若し是(かく)の如き義ならば、諸の衆生等は云何が随順して、而も能く入ることを得るや。
 答えて曰く、若し一切法は説くと雖も能説可説と有ること無く、念ずと雖も亦た能念可念と無しと知らば、是れを随順と名づけ、若し念を離るれば、名づけて入ることを得たりと為す。

 〔2 心真如の世界にたいする言説による仮立〕
 復、次に真如とは、言説に依りて分別すれば二種の義有り。云何が二と為す。一には如実空(くう)、能く究竟(くきょう)して実を顕(あら)わすを以ての故なり。二には如実不空、自体有りて無漏性功徳を具足するを以ての故なり。
 言う所の空とは、本より已来、一切の染法と相応せざるが故なり。謂く、一切法の差別の相を離れたり。虚妄(こもう)の心念(しんねん)無きを以ての故なり。当に知るべし、真如の自性有相にも非ず、無相にも非ず、非有相(ひうそう)にも非ず、非無相(ひむそう)にも非ず、有無倶相(うむくそう)にも非ず、一相にも非ず、異相にも非ず、非一相にも非ず、非異相(ひいそう)にも非ず、一異倶相(いちいくそう)にも非ず、乃至、総説せば、一切の衆生は妄心有るを以て念念に分別するも、皆〔真如と〕相応せざるに依るが故に、説いて空と為す、と。若し妄心を離るれば、実には空ず可きもの無きが故なり。
 言う所の不空とは、已に法体(ほったい)は空にして妄(もう)無きを顕わすが故に、即ち是れ真心(しんじん)にして、常(じょう)・不変にして浄法満足せるが故に不空と名づくるも、亦た相の取る可きもの有ること無し。離念の境界は唯だ証とのみ相応するを以ての故なり。

  〔二 心生滅門〕

 〔1 心の生滅〕
〔① 阿梨耶識の定義〕
 心生滅とは、如来蔵に依るが故に生滅心有り。謂う所は、不生不滅と生滅と和合して、一にも非ず異にも非ざるを名づけて阿梨耶識と為す。此の識には、二種の義の能く一切の法を摂し一切の法を生ずる有り。云何が二と為す。一には覚の義、二には不覚の義なり。
〔② 心の本性にたいする覚知の義〕
 言う所の覚の義とは、心体の離念なるを謂う。離念の相は虚空界に等しくして、遍ぜざる所無く、法界一相(いっそう)なり。即ち是れ如来の平等法身なり。此の法身に依りて説いて本覚と名づく。何を以ての故に。本覚の義とは始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以てなり。
 始覚の義とは、本覚に依るが故に而(シカ)も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。
 又、心源を覚するを以ての故に究竟覚と名づけ、心源を覚せざるが故に究竟覚には非ず〔とするなり〕。
 此の義は云何。(1)、凡夫人の如きは、前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止(とど)めて其れをして起こらざらしむれば、復、覚と名づくと雖も、即ち是れ不覚なるが故なり。(2)、二乗の観智と初発意の菩薩等の如きは、念の異を覚し、念に異相無くして、麁分別執著の相を捨(しゃ)せるを以ての故に、相似覚と名づく。(3)、法身の菩薩等の如きは、念の住(じゅう)を覚し、念に住相無くして、分別(ふんべつ)と麁(そ)念(ねん)の相を離れたるを以ての故に、随分覚と名づく。(4)、菩薩地尽きたるが如きは、方便を満足し、一念相応して、心の初起を覚し、心に初相無くして、微細の念を遠離せるを以ての故に、心性を見わすことを得て、心は即ち常住なれば、究竟覚と名づく。
 是の故に、修多羅(しゅたら)に、「若し衆生有りて能く無念を観ずる者は、則ち仏智に向かうと為す」と説くが故なり。又、心の起こるとは、初相の知る可きもの有ること無きに、而も初相を知ると言うは、即ち謂(いわ)く無念なり。是の故に一切の衆生を名づけて覚と為さず。本より来(このかた)、念と念と相続して、未だ曾(か)つて念を離れざるを以ての故に、無始の無明と説く。若し無念を得ば、則ち心相の生・住・異・滅を知る。無念と等しきを以ての故なり。而も実には始覚の異有ること無し。四相は倶時(くじ)にして有り、皆、自立すること無く、本来平等にして同一覚なるを以ての故なり。

 復、次に、本覚の染(ぜん)に随(したが)うを分別すれば、二種の相を生じて〔しかも〕彼の本覚と相い捨離せず。云何が二と為す。一には智浄相、二には不思議業相なり。
 智浄相(ちじょうそう)とは、謂く、法力熏習に依りて如実に修行し、方便を満足するが故に、和合識の相を破し、相続心の相を滅して、法身の智の淳(じゅん)浄(じょう)なるを顕現するが故なり。
 此の義は云何(いかん)。一切の心識の相は皆、是れ無明なると、無明の相は覚性を離れざるとを以て、壊(え)す可きに非ず、壊す可からざるに非ず。大海の水の風に因(よ)りて波動ずるに、水相と風相とは相い捨離(しゃり)せざるも、而も水は動性に非ざれば、若し風にして止滅するときは、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は壊せざるが如く、是の如く、衆生の自性清浄心無明の風に因りて動ずるとき、心と無明とは倶に形相(ぎょうそう)無くして相い捨離せざるも、而も心は動性に非ざれば、若し無明にして滅するときは、相続は則ち滅するも、智性(ちしょう)は壊せざるが故なり。
 不思議業相とは、智の浄なるに依りて、能く一切の勝(しょう)妙(みょう)の境界(きょうがい)を作(な)すを以てなり。謂う所は、無量の功徳の相は常に断絶すること無く、衆生の根に随いて自然(じねん)に相応し、種種に現じて利益を得しむるが故なり。

 復、次に覚の体相とは、四種の大義有り。虚空と等しくして、猶お浄(じょう)鏡(きょう)の如し。云何が四と為す。一には如実(にょじつ)空(くう)鏡(きょう)なり。一切の心と境界との相を遠離して、法として現ず可きもの無し。覚(かく)照(しょう)の義には非ざるが故なり。二には因(いん)熏(くん)習(じゅう)鏡(きょう)なり。謂く如実不空なり。一切の世間の境界は悉く中に於いて現じて、出でず入らず、失せず壊せずして、常住なる一心なり。一切の法は即ち真実性なるを以ての故なり。又、一切の染法(ぜんぽう)の染すること能わざる所にして、智体は動ぜずして無漏を具足し、〔もって〕衆生に熏ずるが故なり。三には法(ほう)出離(しゅっり)鏡(きょう)なり。謂く、不空の法は煩悩礙(ぼんのうげ)と智礙(ちげ)とを出で、和合の相を離れて、淳・浄・明なるが故なり。四には縁(えん)熏習(くんじゅう)鏡(きょう)なり。謂く、法出離に依るが故に、遍ねく衆生の心を照らして、善根を修せしむ。念に随いて示現(じげん)するが故なり。
〔③ 心の本性にたいする迷妄〕
言う所の不覚の義とは、謂く、如実に真如の法の一なるを知らざるが故に、不覚の心起こりて其の念有り。念に自相無くして、本覚を離れず。猶お迷人は方(ほう)に依るが故に迷うも、若し方を離るれば則ち迷うこと有ること無きが如く、衆生も亦た爾(しか)なり。覚に依るが故に迷うも、若し覚性を離るれば、則ち不覚無し。不覚妄想心有るを以ての故に、能く名と義とを知りて為に真(しん)覚(かく)と説くも、若し不覚の心を離るれば、則ち真覚の自相の説く可きもの無し。
復、次に、不覚に依るが故に三種の相を生じ、〔しかも〕彼の不覚と相応して離れず。云何が三と為す。一には無明業相(むみょうごっそう)なり。不覚に依るを以ての故に心の動ずるを説いて名づけて業と為す。覚すれば則ち動ぜず、動ずれば則ち苦有り。果は因を離れざるが故なり。二には能見相(のうけんそう)なり。動ずるに依るを以ての故に能見あり。動ぜざれば則ち見無し。三には境界相(きょうがいそう)なり。能見に依るを以ての故に、境界妄(もう)に現ず。見を離るれば則ち境界無し。
境界の縁(えん)有るを以ての故に、復、六種の相を生ず。云何が六と為す。一には智相(ちそう)なり。境界に依りて心起こりて、愛と不愛とを分別(ぶんべつ)するが故なり。二には相続相(そうぞくそう)なり。智に依るが故に其の苦楽の覚心を生じ、念を起こし相応して断ぜざるが故なり。三には執取相(しゅうしゅそう)なり。相続に依りて境界を縁(えん)念(ねん)し、苦楽を住持(じゅうじ)して、著(じゃく)を起こすが故なり。四には計(け)名(みょう)字(じ)相(そう)なり。妄執(もうしゅう)に依りて仮の名言(みょうごん)の相を分別するが故なり。五には起業相(きごっそう)なり。名字に依りて名を尋ねて取著(しゅじゃく)し、種種の業を造るが故なり。六には業(ごっ)繋(け)苦(く)相(そう)なり。業に依りて果を受け、自在ならざるを以ての故なり。
 当に知るべし、無明は能く一切の染法を生ず、と。一切の染法は皆、是れ不覚の相なるを以ての故なり。
〔④ 覚と不覚との関係――同相・異相――〕
 復、次に、覚と不覚とに二種の相有り。云何が二と為す。一には同相、二には異相なり。
 同相と言うは、譬えば種種なる瓦器(がき)の皆、同じく微塵(みじん)の性と相なるが如く、是の如く、無漏と無明との種種なる業(ごう)幻(げん)は、皆、同じく真如の性と相となり。是の故に、修多羅の中に、此の真如の義に依るが故に、二切の衆生は本来常住にして涅槃に入れり。菩提の法は修(しゅ)す可き相にも非ず、作す可き相にも非ず、畢竟じて無得(むとく)なればなり」と説く。亦た「色相(しきそう)の見(あら)わる可きもの無きも、而(しか)も色相を見わすこと有り」とは、唯だ是れ随(ずい)染(ぜん)業(ごう)幻(げん)の所作なるのみ。是れ智に色不空の性あるに非ず。智相の見わる可きもの無きを以ての故なり。
 異相と言うは、種種の瓦器の各各(おのおの)同じからざるが如く、是の如く、無漏と無明との随染幻の差別(しゃべつ)と性染幻(しょうぜんげん)の差別となるが故なり。

 〔2 心生滅の因縁〕
 復、次に、生滅の因縁とは、謂う所は、衆生、心に依りて意と意識として転ずるが故なり。此の義は云何。阿梨耶識に依りて無明有りと説くを以てなり。不覚にして起こると、能見と、能現と、能く境界を取ると、念を起こして相続するとの故に、説いて意と為す。
 此の意に復、五種の名有り。云何が五と為す。一には名づけて業識(ごっしき)と為す。謂く、無明の力にて不覚の心動ずるが故なり。二には名づけて転識(てんじき)と為す。動心に依りて能見相あるが故なり。三には名づけて現識(げんしき)と為す。謂う所は、能く一切の境界を現ずること、猶お明(みょう)鏡(きょう)の色像(しきぞう)を現ずるが如く、現識も亦た爾(しか)なり。其の五塵(ごじん)に随いて対至(たいし)するに、即ち現じて前後有ること無し。一切時に任運(にんぬん)にして起こりて、常に前に在るを以ての故なり。四には名づけて智識(ちしき)と為す。謂く、染浄(ぜんじょう)の法を分別するが故なり。五には名づけて相続(そうぞく)識(しき)と為す。念が相応して断ぜざるを以ての故に、過去の無量(むりょう)世(せ)等の善悪の業を住持して、失わざらしむるが故なり。復、能く現在と未来との苦楽等の報を成熟(じょうじゅく)して、差違(さい)すること無きが故なり。能く現在已経(いきょう)の事をして忽然(こつねん)として念ぜしめ、未来の事をして不覚に妄慮(もうりょ)せしむ。
 是の故に、三界(さんがい)は虚偽(こぎ)にして、唯だ心の所作なるのみ。心を離るれば則ち六塵の境界無し。此の義は云何。一切の法は皆、心より起こり、妄念にして生ずるを以て、一切の分別は即ち自心を分別するなり。心にして心を見ずんば、相として得可きもの無し。当に知るべし、世間の一切の境界は皆、衆生の無明・妄心に依りて住持することを得、と。是の故に、一切の法は、鏡中の像の体として得(う)可(べ)きもの無きが如く、唯だ心のみにして虚妄なり。心生ずれば則ち種種の法生じ、心滅すれば則ち種種の法滅するを以ての故なり。
 復、次に、意識と言うは、即ち此の相続識なり。諸の凡夫は取著(しゅじゃく)転(うた)た深くして、我・我所を計(け)し、種種に妄執(もうしゅう)し、事に随いて攀縁(はんえん)し、六塵を分別するに依りて、名づけて意識と為す。亦た分離(ぶんり)識(しき)とも名づけ、又復(また)、説いて分別(ふんべつ)事識(じしき)とも名づく。此の識は見(けん)と愛との煩悩に依りて増長する義なるが故なり。
 無明の熏習に依りて起こさるる識は、凡夫の能く知るところに非ず、亦た二乗の智慧に覚せらるるものにも非ず。謂く、菩薩に依るも、初めの正信より発心し観察(かんざつ)して、若し法身を証(しょう)せば少分に知ることを得(え)、乃至、菩薩の究竟地にも知り尽くすこと能わず、唯だ仏のみ窮(きゅう)了(りょう)す。何を以ての故に。是の心は本より已来、自性(じしょう)清浄(しょうじょう)なるに而も無明有り、無明の為に染(ぜん)せられて其の染心(ぜんしん)有り、染心有りと雖(いえど)も而も常恒(じょうごう)にして不変なり。是の故に、此の義は唯だ仏のみ能く知るなり。
 謂う所の心性(しんしょう)は常に無念なるが故に、名づけて不変と為す。一法界(いっぽっかい)に達せざるを以ての故に、心不相応にして、忽然として念の起こるを、名づけて無明と為す。
 染心とは六種有り。云何が六と為す。一には執相応染(しゅそうおうぜん)なり。二乗の解脱(げだつ)と及び信相応地(しんそうおうじ)とに依りて遠離するが故なり。二には不断(ふだん)相応(そうおう)染(ぜん)なり。信相応地に方便を修学(しゅがく)するに依りて漸漸(ぜんぜん)に能く捨(しゃ)し、浄心地(じょうしんじ)を得て究竟して離るるが故なり。三には分別智(ふんべっち)相応(そうおう)染(ぜん)なり。具戒地(ぐかいじ)に依りて漸に離れ、乃至、無相(むそう)方便地(ほうべんじ)にて究竟して離るるが故なり。四には現色(げんしき)不相応染(ふそうおうぜん)なり。色自在地に依りて能く離るるが故なり。五には能見(のうけん)心(しん)不相応(ふそうおう)染(ぜん)なり。心(しん)自在地(じざいじ)に依りて能く離るるが故なり。六には根本業(こんぽんごう)不相応(ふそうおう)染(ぜん)なり。菩薩尽地(ぼさつじんじ)より如来地に入るを得るに依りて能く離るるが故なり。
 一法界を了(りょう)せざるの義は、信相応地より観察し学断して、浄心地に入りて分に随いて離るることを得、乃至、如来地に能く究竟して離るるが故なり。
 相応の義と言うは、謂く、心と念と法異なり、染と浄と差別するも、而も知相(ちそう)と縁相(えんそう)と同じきに依るが故なり。不相応の義とは、謂く、心に即するの不覚にして常に別異無く、知相と縁相とを同じうせざるが故なり。
 又、染心の義とは、名づけて煩悩礙(ぼんのうげ)と為す。能く真如(しんにょ)根本(こんぽん)智(ち)を障(さ)うるが故なり。無明の義とは、名づけて智礙(ちげ)と為す。能く世間(せけん)自然(じねん)業智(ごうち)を障うるが故なり。此の義は云何。染心に依りて能見(のうけん)と能(のう)現(げん)とあり、妄に境界を取りて、平等性(びょうどうしょう)に違するを以ての故なり。一切の法は常に静(じょう)にして起相(きそう)有ること無きに、無明不覚の妄に法と違するを以ての故に、世間の一切の境界に随順して種種に知ることを得ること能わざるが故なり。

 〔3 心生滅の相〕
 復、次に、生滅の相を分別すれば二種有り。云何が二と為す。一には麁(そ)、心と相応するが故なり。二には細(さい)、心と相応せざるが故なり。又、麁中の麁は凡夫の境界、麁中の細と及び細中の麁とは菩薩の境界、細中の細は是れ仏の境界なり。
 此の二種の生滅は、無明の熏習に依りて有り。謂う所は、因に依ると縁に依るとなり。因に依るとは、不覚の義なるが故なり。縁に依るとは、妄に境界を作(な)す義なるが故なり。若し因滅すれば則ち縁滅す。因滅するが故に不相応の心滅し、縁滅するが故に相応の心滅す。
 問うて曰く、若し心にして滅せば、云何が相続せん。若し相続せば、云何が究竟して滅すと説くや。
 答えて曰く、言う所の滅とは、唯だ心相(シンソウ)のみの滅にして、心体(しんたい)の滅には非ず。風は水に依りて動相有り、若し水にして滅せば、則ち風相は断絶して依止(えじ)する所無きに、水は滅せざるを以て風相は相続し、唯だ風のみ滅するが故に動相は随いて滅するも、是れ水の滅するには非ざるが如し。無明も亦た爾なり。心体に依りて動ずれば、若し心体にして滅すれば、則ち衆生は断絶して依止する所無きに、体は滅せざるを以て、心は相続することを得。唯だ癡のみ滅するが故に、心相は随いて滅するも、心智の滅するには非ざるなり。

 〔4 薫習論〕
〔① 薫習ということ〕
 復、次に、四種の法の熏習の義有るが故に、染法(ぜんぽう)と浄法(じょうほう)と起こりて断絶せざるなり。云何が四と為す。一には浄法、名づけて真如と為す。二には一切の染因(ぜんいん)、名づけて無明と為す。三には妄心(もうじん)、名づけて業識(ごっしき)と為す。四には妄(もう)境界(きょうがい)、謂う所は六塵(ろくじん)なり。
 熏習の義とは、世間の衣服(えぶく)は実には香無きも、若し人にして香を以て熏習するが故に、則ち香気有るが如く、此れも亦た是の如し。真如浄法は実には染(ぜん)無きも、但だ無明を以て熏習するが故に、則ち染相有り。無明染法は実には浄業(じょうぎょう)無きも、但だ真如を以て熏習するが故に、則ち浄用(じょうゆう)有り。
〔② 染法の側からの薫習〕
 云何が熏習起こりて染法断ぜざるや。謂う所は、真如法に依るを以ての故に無明有り。無明なる染法の因有るを以ての故に、即ち真如に熏習し、熏習するを以ての故に、則ち妄心有り。妄心有るを以て、即ち無明に熏習し、真如法を了(りょう)せざるが故に、不覚の念(ねん)起こりて、妄境界を現(げん)ず。妄境界なる染法の縁有るを以ての故に、即ち妄心に熏習し、其れをして念著(ねんじゃく)して、種種の業を造り、一切の身心等の苦を受けしむるなり。
 此の妄境界の熏習する義に則ち二種有り。云何が二と為す。一には増長(ぞうちょう)念(ねん)熏習、二には増長(ぞうちょう)取(しゅ)熏習なり。
 妄心の熏習する義にも則ち二種有り。云何が二と為す。一には業識(ごっしき)根本熏習なり。能く阿羅漢と辟支仏と一切の菩薩とをして生滅の苦を受けしむるが故なり。二には増長(ぞうちょう)分別事識熏習(しきくんじゅう)なり。能く凡夫をして業繋(ごっけ)の苦を受けしむるが故なり。
 無明の熏習する義にも二種有り。云何が二と為す。一には根本熏習なり。能く業識を成就する義なるを以ての故なり。二には所起見愛熏習なり。能く分別事識を成就する義なるを以ての故なり。
〔③ 浄法の側からの黒習〕
〈略説〉云何が熏習起こりて浄法断ぜざるや。謂う所は、真如法有るを以ての故に、能く無明に熏習し、熏習の因と縁との力を以ての故に、則ち妄心をして生死の苦を厭(いと)い涅槃を楽求(ぎょうぐ)せしむ。此の妄心に厭求(おんぐ)の因縁有るを以ての故に、即ち真如に熏習す。自ら己が性を信じ、心が妄に動ずるのみにして前の境界(きょうがい)は無なりと知りて遠離の法を修す。実の如く前の境界は無なりと知るを以ての故に、種種の方便もて随順(ずいじゅん)行(ぎょう)を起こし、取(しゅ)せず念ぜず、乃至、久遠の熏習力の故に、無明則ち滅す。無明滅するを以ての故に、心の起こること有ること無し。起こること無きを以ての故に、境界随いて滅す。因と縁と倶に滅するを以ての故に、心相皆、尽くるを、涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。
〈浄法薫習としての妄心薫習〉妄心熏習の義に二種有り。云何が二と為す。一には分(ふん)別(べつ)事(じ)識(しき)熏習なり。諸(もろもろ)の凡夫と二乗人等の、生死の苦を厭うに依りて、力の能(あた)う所に随いて漸(ぜん)に無上道に趣向するを以ての故なり。二には意熏習(いくんじゅう)なり。謂く、諸の菩薩の発心(ほっしん)勇猛(ゆうみょう)にして、速やかに涅槃に趣くが故なり。
〈真如薫習〉真如(しんにょ)熏習の義に二種有り。云何が二と為す。一には自体(じたい)の相の熏習、二には用(ゆう)の熏習なり。
 自体の相の熏習とは、無始世(むしせ)より来(このかた)、無漏法を具すと、備さに不思議の業有りて境界の性と作ると、此の二義に依りて恒常に熏習し、力有るを以ての故に、能く衆生をして生死の苦を厭いて涅槃を楽求せしめ、自ら已身に真如法有りと信じて発心し修行せしむるをいう。
 問うて曰く、若し是の如き義ならば、一切の衆生に悉く真如有りて等しく皆、熏習せんに、云何ぞ有信(うしん)と無信(むしん)と無量の前後(ぜんご)差別(しゃべつ)とあるや。皆、応に一時に自らに真如の法有りと知りて、方便を勤修(ごんしゅ)して、等しく涅槃に入るべきや。
 答えて曰く、真如は本より一なれども、而も無量無辺の無明有りて、本より已来(いらい)、自性(じしょう)差別(しゃべつ)し、厚薄同じからざるが故に、過恒沙(かごうじゃ)等の上煩悩(じょうぼんのう)も無明に依りて起こりて差別あり、我見(がけん)愛染(あいぜん)の煩悩も無明に依りて起こりて差別あり。是の如く、一切の煩悩の無明に依りて起こされて、前後無量に差別あること、唯だ如来のみの能く知るところなるが故なり。
 又、諸仏の法には因有り縁有り、因と縁とにして具足(ぐそく)して乃ち成辦(じょうべん)することを得(う)。木中の火性は是れ火の正因(しょういん)なるも、若し人の知ること無くして、方便を仮(か)らずんば、能く自ら木を焼くこと、是の処(ことわり)有ること無きが如く、衆生も亦た爾(しか)なり。正因の熏習の力有りと雖(いえど)も、若し諸仏・菩薩・善(ぜん)知識(ちしき)等に値遇(ちぐう)し之(これ)を以て縁と為(な)さずんば、能く自ら煩悩を断じて涅槃に入らんこと、則ち是の処無し。若しくは外縁(げえん)の力有りと雖も、而も内の浄法にして未だ熏習の力有らずんば、亦た究竟(くきょう)して生死の苦を厭いて涅槃を楽求すること能わず。若し因と縁とにして具足せば、謂(い)う所は、自らに熏習の力有り、又、諸仏と菩薩等の為(ため)に慈悲(じひ)、願護(がんご)せらるるが故に、能く苦を厭う心を起こし、涅槃有るを信じて、善根(ぜんごん)を修習(しゅじゅう)す。善根を修すること成熟(じょうじゅく)するを以ての故に、則ち諸仏・菩薩の示教(じきょう)に値(あ)いて利(り)喜(き)し、乃ち能く進趣(しんしゅ)して、涅槃の道に向かう。
 用(ゆう)の熏習(くんじゅう)とは、即ち是れ衆生〔にたいする〕外縁(げえん)の力なり。是(かく)の如き外縁には無量の義有るも、略説すれば二種なり。云何が二と為す。一には差別(しゃべつ)縁(えん)、二には平等(びょうどう)縁(えん)なり。
 差別縁とは、此の人、諸仏・菩薩等に依りて、初発意(しょほっち)に始めて道を求むる時より、乃至、仏を得るまで、中に於いて若しは見(み)、若しは念ずるに、〔諸仏・菩薩等は〕或いは眷属(けんぞく)・父母(ぶも)・諸親と為(な)り、或いは給使(きゅうし)と為り、或いは知友と為り、或いは怨家(おんけ)と為り、或いは四(し)摂(しょう)を起こし、乃至、一切の所作と無量の行(ぎょう)縁(えん)とをもて、大悲の熏習する力を起こし、能(よ)く衆生をして善根を増長(ぞうちょう)せしめ、若しは見、若しは聞きて、利(り)益(やく)を得しむるを以ての故なり。
 此の縁に二種有り。云何が二と為す。一には近(ごん)縁(えん)にして、速やかに度(ど)するを得るが故なり。二には遠縁(おんえん)にして、久遠(くおん)に度するを得るが故なり。是の近(ごん)と遠(おん)との二縁を分別(ふんべつ)するに、復(また)、二種有り。云何が二と為す。一には増長(ぞうちょう)行縁(ぎょうえん)、二には受(じゅ)道(どう)縁(えん)なり。
 平等縁とは、一切の諸仏・菩薩は皆、一切の衆生を度脱(どだつ)せんことを願い、自然(じねん)に熏習して恒常(ごうじょう)に捨(しゃ)せず、同体の智力を以ての故に、応(まさ)に〔衆生の〕見聞すべきところに随(したが)いて、而(しか)も作業(さごう)を現(げん)ずるをいう。謂う所は、衆生は三昧(さんまい)に依(よ)りて乃(すなわ)ち平等に諸仏を見ることを得るが故なり。
 此の体(たい)と用(ゆう)との熏習を分別するに、復、二種有り。云何が二と為す。一には未相応(みそうおう)なり。謂(いわ)く、凡夫・二乗・初発意の菩薩等は、意と意識との熏習を以て、信力(しんりき)に依るが故に而も能く修行するも、未だ無分別(むふんべつ)心(しん)を得て体と相応せざるが故なると、未だ自(じ)在(ざい)業(ごう)の修行を得て用と相応せざるが故なり。二には已(い)相(そう)応(おう)なり。謂く、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸仏の智用(ちゆう)と相応し、唯だ法力(ほうりき)のみに依りて、自然に修行し、真如に熏習して、無明(むみょう)を滅するが故なり。
〔④ 染浄熏習の尽・不尽〕
 復、次に、染法(ぜんぽう)は、無始より已来、熏習して断ぜず、乃至、仏を得たる後には則ち断有り。〔しかるに〕浄法熏習(じょうほうくんじゅう)は則ち断ずること有ること無く、未来を尽くす。此の義は云何。真如の法は常に熏習するを以ての故に、妄(もう)心(じん)にして則ち滅せば、法(ほっ)身(しん)顕現(けんげん)して、用熏習(ゆうくんじゅう)を起こす。故に断ずること有ること無し。

 〔5 体・相・用の三大義と仏身観〕
〔① 真如の自体の相〕
 復、次に、真如の自体の相とは、一切の凡夫・声聞・縁覚・菩薩・諸仏に増減有ること無く、前(ぜん)際(さい)に生ずるに非ず、後(ご)際(さい)に滅するに非ず、畢竟(ひっきょう)じて常恒なり。本より已来、性として自ら一切の功徳を満足す。謂う所は、自体に大智慧(だいちえ)光明(こうみょう)の義有るが故に、遍照(へんじょう)法界(ほっかい)の義あるが故に、真実(しんじつ)識(しき)知(ち)の義あるが故に、自性(じしょう)清浄(しょうじょう)心(しん)の義あるが故に、常(じょう)・楽(らく)・我(が)・浄(じょう)の義あるが故に、清涼(しょうりょう)・不変・自在の義あるが故なり。是の如き恒沙(ごうしゃ)を過ぎたる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し、乃至、満足して少(か)くる所有ること無き義の故に、名づけて如来蔵(にょらいぞう)と為し、亦た如来(にょらい)の法身(ほっしん)とも名づく。
 問うて曰く、上には真如は其の体平等にして一切の相を離ると説きたるに、云何ぞ復(また)、体に是の如き種種の功徳有りと説くや。
 答えて曰く、実に此の諸(もろもろ)の功徳の義有りと雖(いえど)も、而も差別(しゃべつ)の相無く、等同(とうどう)一味(いちみ)にして、唯一真如なり。此の義は云何。〔真如は〕無分別(むふんべつ)にして、分別の相を離れ、是の故に無二なるを以てなり。復、何の義を以て差別を説くことを得るや。業識(ごっしき)の生滅相(しょうめつそう)に依(よ)りて示すを以てなり。此れ云何が示すや。一切の法は本より来(このかた)、唯だ心のみにして実には念無きも、而も妄心(もうじん)有り、不覚(ふかく)にして念を起こして、諸の境界(きょうがい)を見るを以ての故に、無明(むみょう)と説く。〔しかるに〕心性(しんしょう)にして不起なるは、即ち是れ大智慧光明の義なるが故なり。若(も)し心にして見(けん)を起こさば、則ち不見の相有るも、心性にして見を離るるは、即ち是れ遍(へん)照(じょう)法界(ほっかい)の義なるが故なり。若し心にして動有らば、真の識知に非ず、自性(じしょう)有ること無く、常に非ず、楽に非ず、我に非ず、浄に非ず、熱悩(ねつのう)衰変(すいへん)して則ち自在ならず、乃至、具(つぶ)さに過恒沙(かごうじゃ)等の妄染(もうぜん)の義有り。此の義に対するが故に、心性にして動無ければ則ち過恒沙等の諸の浄(じょう)功徳(くどく)の相の義の示現(じげん)すること有り。若し心にして起こること有りて、更に前法の念ず可(べ)きを見るときは、則ち少(か)くる所有るも、是の如き浄法の無量の功徳は、即ち是れ一心にして、更に所念無し。是の故に満足せるを名づけて法身・如来の蔵と為す。
〔② 真如の用(はたらき)――衆生にとって仏とは何か――〕
 復、次に、真如(しんにょ)の用(ゆう)とは、謂(い)う所は、諸仏如来は、本(も)と因地(いんじ)に在りて、大慈悲を発(はっ)し、諸の波羅蜜(はらみつ)を修(しゅ)して、衆生を摂化(せっけ)し、大誓願を立てて尽(ことごと)く等しく衆生界(しゅじょうかい)を度脱(どだつ)せんと欲し、亦た劫数(こうしゅ)を限らず未来を尽(つ)くす。一切の衆生を取ること己身の如くなるを以ての故なり。而も亦た衆生という相をも取らず。此れ何の義を以てなりや。謂く、実の如く一切の衆生と及び己身とは、真如として平等にして別異無しと知るが故なり。
 是の如き大方便(だいほうべん)智(ち)有るを以て、無明を除滅(じょめっ)して本の法身を見(あら)わし、自然(じねん)にして而も不思議業の種種の用(ゆう)有り。即ち真如と等しく一切処(いっさいしょ)に遍(へん)ずるも、又亦(また)、用の相の得可(うべ)きもの有ること無し。何を以ての故に。謂く、諸仏如来は唯だ是れ法身(ほっしん)智相(ちそう)の身、第一義諦(だいいちぎたい)にして、世諦(せたい)の境界(きょうがい)有ること無く、施作(せさ)を離れ、但だ衆生の見聞して益(やく)を得るに随(したが)うが故に説いて用と為す。
 此の用に二種有り。云何が二と為す。一には分別(ふんべつ)事識(じしき)に依(よ)るもの。凡夫と二乗との心の見る所の者にして、名づけて応身(おうじん)と為す。転識(てんじき)の現(げん)ずるものなることを知らざるを以ての故に、外より来たると見て、色(しき)の分斉(ぶんざい)を取り、尽くは知ること能(あた)わざるが故なり。
 二には業識に依るもの。謂く、諸の菩薩の、初発意(しょほっち)より、乃至、菩薩(ぼさつ)究竟地(くきょうじ)までの心の見る所の者にして、名づけて報身(ほうじん)と為す。身に無量の色(しき)有り、色に無量の相有り、相に無量の好有り。所住(しょじゅう)の依果(えか)にも亦た無量の種種の荘厳(しょうごん)有り。示現(じげん)する所に随いて即ち辺(かぎり)有ること無く、窮尽(ぐうじん)す可(べ)からず、分斉(ぶんざい)の相を離る。其の所応(しょおう)に随いて常に能く住持(じゅうじ)し、毀(き)せず失(しつ)せず。是の如き功徳は、皆、諸の波羅蜜等の無漏(むろ)の行熏(ぎょうくん)と及び不思議熏(ふしぎくん)とに成就せらるるに因(よ)るものにして、無量の楽相(らくそう)を具足するが故に、説いて報身と為す。
 又、凡夫の所見と為(な)る者は、是れ其の麁(そ)色(しき)なり。六道に随(したが)いて各(おのおの)見ること同じからざれば、種種の異類あり、受(じゅ)楽(らく)の相には非ず。故に説いて応(おう)身(じん)と為す。
 復(また)、次に、初発意(しょほっち)の菩薩等の見る所は、深く真如の法を信ずるを以ての故に、少分(しょうぶん)にして見るなり。彼の色相(しきそう)と荘厳等の事は、来(らい)も無く去(こ)も無く、分斉を離れ、唯だ心に依(よ)りて現(げん)じて、真如を離れずと知る。然(しか)るに此の菩薩は猶お自ら分別(ふんべつ)す。未だ法身(ほっしん)の位に入らざるを以ての故なり。若(も)し浄心(じょうしん)を得ば、見る所微妙(みみょう)にして、其の用(ゆう)は転(うた)た勝れたり、乃至、菩薩(ぼさつ)地(じ)尽くれば、之(これ)を見ること究竟(くきょう)す。若し業識(ごっしき)を離るれば、則ち見相(けんそう)無し。諸仏の法身は彼此(ひし)の色相の迭(たが)いに相い見らるること有ること無きを以ての故なり。
 問うて曰(いわ)く、若し諸仏の法身にして色相を離るれば、云何(いかん)が能(よ)く色相を現ずるや。
 答えて曰く、即ち此の法身は、是れ色の体なるが故に、能く色を現ず。謂(い)う所は、本より已来(いらい)、色と心とは不二(ふに)なればなり。色性(しきしょう)は即ち智なるを以ての故に、色の体の無(む)形(ぎょう)なるを、説いて智身(ちしん)と名づく。智(ち)性(しょう)は即ち色なるを以ての故に、説いて法身一切処(いっさいしょ)に遍(へん)ずと名づく。現ずる所の色には分斉有ること無きも、心に随いて能く十方(じっぽう)世界(せかい)の無量の菩薩、無量の報(ほう)身(じん)、無量の荘厳とを示して、各(おの)各(おの)差別あり。〔しかも〕皆、分斉無くして、而(しか)して相い妨(さまた)げざるなり。此れ心(しん)識(しき)分別(ふんべつ)の能く知るところに非ず。真如の自在の用(ゆう)の義なるを以ての故なり。

  〔三 生滅門より真如門へ入ることを顕示する〕
 復、次に、生滅門(しょうめつもん)より即ち真如門(しんにょもん)に入ることを顕示(けんじ)せん。謂(い)う所は、五陰(ごおん)を推求(すいぐ)するに色と心とにして、六(ろく)塵(じん)の境界(きょうがい)は畢竟(ひっきょう)じて無念なり。心は形相(ぎょうそう)無ければ、十方に之を求むるも終(つい)に不可得(ふかとく)なるを以てなり。人の迷うが故に東を謂(い)いて西と為すも、方(ほう)は実には転ぜざるが如く、衆生も亦た爾(しか)なり。無明の迷いの故に心を謂いて念と為すも、心は実には動ぜざるなり。若し能く観察(かんざつ)して、心は無念なりと知らば、即ち随順して真如門に入ることを得るが故なり。

     〔第二節 対治邪執〕

  〔一 総 説〕
 邪執を対(たい)治(じ)すとは、一切の邪執は皆、我見(がけん)に依るものなれば、若し我を離るれば、則ち邪執無し。是の我見に二種有り。云何(いかん)が二と為す。一には人我見(にんがけん)、二には法(ほう)我見(がけん)なり。

  〔二 人我見〕
 人我見とは、諸(もろもろ)の凡夫に依りて説くに五種有り。云何(いかん)が五と為す。
 一には、修多羅(しゅたら)に「如来の法身は畢竟(ひっきょう)じて寂寞(じゃくばく)なること猶お虚空の如し」と説くを聞きて、著(じゃく)を破せんが為(ため)なるを知らざるを以ての故に、即ち虚空(こくう)は是れ如来の性なりと謂(おも)う。云何が対治(たいじ)せん。虚空の相は是れ其れ妄法(もうほう)にして、体は無にして実ならずと明かす。色に対するを以ての故に有り、是の可見(かけん)の相が心をして生滅せしむるも、一切の色法(しきほう)は本より来(このかた)、是れ心なるを以て、実には外の色無し。若し色無くんば、則ち虚空の相も無し。謂(い)う所は、一初の境界(きょうがい)は唯だ心のみにして、妄に起こるが故に有るも、若し心にして妄動(もうどう)を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一真心(しんじん)のみにして、遍(へん)ぜざる所無し。此れを如来の広大(こうだい)性智(しょうち)究竟(くきょう)の義と謂う。虚空の相の如きには非ざるが故なり。
 二には、修多羅に「世間の諸法は畢竟じて体は空なり、乃至、涅槃(ねはん)・真如の法も亦た畢竟じて空なり、本より已来、自ら空にして一切の相を離れたり」と説くを聞きて、著を破せんが為なるを知らざるを以ての故に、即ち真如・涅槃の性は唯だ是れ其れ空なりと謂(おも)う。云何が対治せん。真如・法身は自体(じたい)不空(ふくう)なりと明かす。無量の性(しょう)功徳(くどく)を具足するが故なり。
 三には、修多羅に「如来の蔵は増減有ること無きも、体に一切の功徳の法を備う」と説くを聞きて、解(げ)せざるを以ての故に、即ち如来の蔵に色(しき)心(しん)の法の自相(じそう)と差別(しゃべつ)と有りと謂(おも)う。云何が対治せん。唯だ真如の義に依りて説くを以ての故なり。生滅の染(ぜん)の義に因(よ)りて示現(じげん)せるを差別と説くが故なり。
 四には、修多羅に「一切の世間の生死(しょうじ)の染法(ぜんぽう)は皆、如来蔵(にょらいぞう)に依りて有り、一切の諸法は真如を離れず」と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、如来蔵の自体に一切の世間の生死等の法を具(ぐ)有(ゆう)すと謂(おも)う。云何が対治せん。如来蔵には本より已来、唯だ過恒沙(かごうしゃ)等の諸(もろもろ)の浄(じょう)功徳(くどく)の、真如に離れず断ぜず異ならざる有るの義を以ての故なり。〔また〕過恒沙等の煩悩の染法は唯だ是れ妄(もう)有(う)にして、性(しょう)としては自ら本より無く、無始世(むしせ)より来(このかた)、未だ曾(か)つて如来蔵と相応せざるを以ての故なり。若し如来蔵の体に妄法有りて、而も証会(しょうえ)して永く妄(もう)を息(や)めしめんとは、則ち是の処(ことわり)有ること無きが故なり。
 五には、修多羅に「如来蔵に依るが故に生死有り、如来蔵に依るが故に涅槃を得(う)」と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、衆生に始(はじめ)有りと謂(おも)い、始を見るを以ての故に、復(また)、如来の得(え)し所の涅槃にも其の終尽(しゅうじん)有りて還(かえ)りて衆生と作(な)ると謂(おも)う。云何が対治せん。如来蔵には前際(ぜんさい)無きを以ての故に、無明の相も亦た始(はじめ)有ること無し。若し「三界(さんがい)の外に更に衆生有りて始めて起こる」と説かば、即ち是れ外道(げどう)経(きょう)の説なり。又、如来蔵には後際(ごさい)有ること無く、諸仏の得し所の涅槃も之(これ)と相応して則ち後際無きが故なり。

  〔三 法我見〕
 法(ほう)我見(がけん)とは、二乗の鈍根に依るが故に、如来は但だ為(ため)に人(にん)無我(むが)と説きたるに、説は究竟(くきょう)せざるを以て、五(ご)陰(おん)生滅(しょうめつ)の法有りと見て、生死(しょうじ)を怖畏(ふい)し、妄(もう)に涅槃を取る。云何が対治せん。五陰の法は自性(じしょう)不生(ふしょう)なれば則ち滅有ることも無く、本来涅槃なるを以ての故なり。

  〔四 究竟して妄執を離る〕
 復、次に、究竟して妄執(もうしゅう)を離るとは、当(まさ)に知るべし、染法と浄法とは皆、悉(ことごと)く相待(そうたい)にして、自相(じそう)の説く可(べ)きもの有ること無し、と。是の故に一切の法は本より已来、色(しき)にも非ず心にも非ず、智(ち)にも非ず識(しき)にも非ず、有にも非ず無にも非ず、畢竟(ひっきょう)じて不可説(ふかせつ)の相なり。而(しか)るに言説(ごんぜつ)有るは、当に知るべし、如来の善(ぜん)巧(ぎょう)方便(ほうべん)にして、仮に言説を以て衆生を引導(いんどう)す、と。其の旨(し)趣(しゅ)は、皆、念を離れて真如に帰(き)せ〔しめ〕んが為(ため)なり。一切の法を念ずれば、心をして生滅(しょうめつ)せしめ、実智(じっち)に入らざらしむるを以ての故なり。

     〔第三節 分別発趣道相〕

  〔一 総 説〕
 道に発趣する相を分別すとは、謂(いわ)く、一切の諸仏の所証(しょしょう)の道に、一切の菩薩の発心(ほっしん)し、修行し、趣向(しゅこう)する義なるが故なり。発心を略説すれば三種有り。云何(いかん)が三と為す。一には信(しん)成就(じょうじゅ)発心(ほっしん)、二には解行(げぎょう)発心(ほっしん)、三には証(しょう)発心(ほっしん)なり。

  〔二 信成就発心〕
〔1 信心の完成――発心の縁〕
 信成就発心とは、何等の人に依(よ)り、何等の行を修(しゅ)し、信成就するを得て能(よ)く発心するに堪(た)うるや。謂(い)う所は、不定聚(ふじょうじゅ)の衆生に依るなり。熏習(くんじゅう)と善根(ぜんごん)との力有るが故に、業の果報を信じて能く十善(じゅうぜん)を起こし、生死(しょうじ)の苦を厭(いと)うて無上の菩提(ぼだい)を欲求(よくぐ)し、諸仏に値(あ)うことを得て、親承(しんしょう)し供養して、信心を修行す。一万劫を経て信心成就するが故に、諸仏と菩薩とが教えて発心せしめ、或いは大悲を以ての故に能く自ら発心し、或いは正法(しょうぼう)のまさに滅せんとするに因(よ)りて護法(ごほう)の因縁を以て能く自ら発心す。是(かく)の如く信心成就して発心することを得たる者は、正定聚(しょうじょうじゅ)に入りて、畢竟(ひっきょう)じて退せず、如来(にょらい)種(しゅ)の中に住して正因(しょういん)と相応すと名づく。
 若し衆生有りて、善根(ぜんごん)微少(みしょう)にして、久遠より已来、煩悩(ぼんのう)深厚(じんこう)なれば、仏に値いて亦た供養することを得(う)と雖(いえど)も、然(しか)も人天(にんでん)の種子(しゅうじ)を起こし、或いは二乗の種子を起こす。設(たと)い大乗を求むる者有るも、根は則ち不定(ふじょう)にして、若しは進み若しは退く。或いは諸仏を供養すること有りて、未だ一万劫を経ざるも、中に於いて縁(えん)に遇(あ)いて亦た発心すること有り。謂う所は、仏の色相(しきそう)を見て其の心を発し、或いは衆(しゅう)僧(そう)を供養するに因りて其の心を発し、或いは二乗の人の教令に因りて発心し、或いは他を学びて発心す。是の如き等の発心は悉(ことごと)く皆、不定にして、悪(あく)因縁(いんえん)に遇わば、或いは便(すなわ)ち退失して二乗地に堕(だ)す。
〔2 発心の相――直心・深心・大悲心〕
 復、次に、信成就発心とは何等の心を発するや。略説するに三種有り。云何(いかん)が三と為す。一には直心(じきしん)、正しく真如(しんにょ)の法を念ずるが故なり。二には深心(じんしん)、楽(ねご)うて一切の諸(もろもろ)の善行を集むるが故なり。三には大悲心(だいひしん)、一切の衆生の苦を抜かんと欲するが故なり。
 問うて曰く、上には法界(ほっかい)は一相(いっそう)にして仏体(ぶったい)は無二(むに)なりと説きたるに、何が故に唯だ真如を念ずるのみならず、復、諸善の行を求学(ぐがく)することを仮(か)るや。
 答えて曰く、譬(たと)えば大摩尼宝(だいまにほう)の体性は明浄(みょうじょう)なるも、而(しか)も鉱穢(こうえ)の垢(く)有り、若し人にして宝性(ほうしょう)を念ずと雖も、方便を以て種種に磨治(まじ)せずんば、終(つい)に浄を得ること無きが如く、是(かく)の如く、衆生の真如の法も体性(たいしょう)は空(くう)浄(じょう)なるも、而(しか)も無量の煩悩の染垢(ぜんく)有り、若(も)し人にして真如を念ずと雖(いえど)も、方便を以て種種に熏修(くんしゅう)せずんば、亦た浄なることを得ること無し。垢は無量にして一切法に遍(へん)ずるを以ての故に、一切の善行を修して以て対治(たいじ)を為すなり。若し人にして一切の善法を修行せば、自然(じねん)に真如の法に帰順するが故なり。
〔3 真如に帰順する四種方便〕
 方便(ほうべん)を略説すれば四種有り。云何が四と為す。
 一には行(ぎょう)根本(こんぽん)方便(ほうべん)なり。謂く、一切の法は自性(じしょう)として無生(むしょう)なりと観(かん)じ、妄見(もうけん)を離れて生死(しょうじ)に住(じゅう)せず、一切の法は因縁(いんねん)和合(わごう)して業果(ごうか)失せずと観じ、大悲を起こし、諸(もろもろ)の福徳を修し、衆生を摂化(せっけ)して涅槃にも住せず。法性(ほっしょう)の無住(むじゅう)なるに随順するを以ての故なり。
 二には能止(のうし)方便(ほうべん)なり。謂く、慚愧(ざんぎ)し悔過(けか)し、能く一切の悪法を止めて増長(ぞうちょう)せしめざるなり。法性の諸過を離れたるに随順するを以ての故なり。
 三には発起(ほっき)善根(ぜんごん)増長(ぞうちょう)方便(ほうべん)なり。謂く、勤めて三宝(さんぼう)を供養し礼拝(らいはい)し、諸仏を讃歎(さんだん)し随喜(ずいき)し勧請(かんじょう)す。三宝を愛敬(あいぎょう)する淳厚(じゅんこう)の心を以ての故に、信(しん)増長(ぞうちょう)することを得て、乃(すなわ)ち能く無上の道を志求す。又、仏・法・僧の力に護(まも)らるるに因るが故に、能く業障(ごっしょう)を消して、善根は退せず。法性の癡障(ちしょう)を離れたるに随順するを以ての故なり。
 四には大願(だいがん)平等(びょうどう)方便(ほうべん)なり。謂(い)う所は、願を発すること、未来を尽くして一切の衆生を化度(けど)するに、余り有ること無からしめて、皆、無余(むよ)涅槃(ねはん)を究竟(くきょう)せしむとなり。法性の断絶無きに随順するを以ての故なり。法性は広大にして一切の衆生に遍(あま)ねく、平等無二にして、彼此(ひし)を念ぜず、究竟して寂滅(じゃくめつ)なるが故なり。
〔4 信成就発心の利益〕
 菩薩は是の心を発するが故に、則ち少分(しょうぶん)に法身(ほっしん)を見ることを得(う)。法身を見るを以ての故に、其の願力に随(したが)いて、能く八種を現(げん)じて衆生を利益(りやく)す。謂う所は、兜率天(とそつてん)より退くと、入胎(にったい)と、住胎(じゅうたい)と、出胎(しゅったい)と、出家(しゅっけ)と、成道(じょうどう)と、法輪(ほうりん)を転(てん)ずると、涅槃(ねはん)に入るとなり。然るに是の菩薩を、未だ法身とは名づけず。其の過去(かこ)無量(むりょう)世来(せらい)の有漏(うろ)の業をば未だ決断すること能(あた)わざるを以てなり。其の生ずる所に随いて微苦(みく)と相応するも、亦た業繋(ごうけ)には非ず。大願自在力有るを以ての故なり。修多羅(しゅたら)の中に或いは「悪(あく)趣(しゅ)に退(たい)堕(だ)する者有り」と説くが如きは、其れ実の退には非ず、但だ初学の菩薩にして未だ正位(しょうい)に入らず而も懈怠(けたい)の者の恐怖(くふ)するを勇猛(ゆうみょう)ならしめんが為の故なり。又、是の菩薩は、一たび発心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(おんり)し、畢竟(ひっきょう)じて二乗地(にじょうじ)に堕することを畏(おそ)れず。若し無量(むりょう)無辺(むへん)阿僧祇劫(あそうぎこう)に勤苦(ごんく)難行(なんぎょう)して乃ち涅槃を得んと聞くも、亦た怯弱ならず。一切の法は本より已来、自(おの)ずから涅槃なりと信知(しんち)せるを以ての故なり。

  〔三 解行発心〕
 解行(げぎょう)発心(ほっしん)とは、当(まさ)に知るべし、転(うた)た勝れたり、と。是の菩薩は、初の正信(しょうしん)より已来、第一阿僧祇劫(あそうぎこう)に於いて将(まさ)に満(まん)ぜんとするを以ての故に、真如(しんにょ)の法の中に於いて深解(じんげ)現前(げんぜん)し、修する所は相を離れたり。法性の体には慳(けん)貪(とん)無しと知るを以ての故に、随順して檀(だん)波羅蜜を修行す。法性には染(ぜん)無くして五欲(ごよく)の過(か)を離れたるを知るを以ての故に、随順して尸(し)波羅蜜を修行す。法性には苦無くして瞋悩(しんのう)を離れたるを知るを以ての故に、随順して羼提(せんだい)波羅蜜を修行す。法性には身心の相無くして懈怠(けたい)を離れたるを知るを以ての故に、随順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修行す。法性は常に定(じょう)にして体に乱無しと知るを以ての故に、随順して禅(ぜん)波羅蜜を修行す。法性は〔その〕体明(みょう)にして無明(むみょう)を離れたるを知るを以ての故に、随順して般若(はんにゃ)波羅蜜を修行す。

  〔四 証発心〕
 証(しょう)発心(ほっしん)とは、浄心地(じょうしんじ)より、乃至、菩薩(ぼさつ)究竟地(くきょうじ)までなり。〔この菩薩は〕何(いず)れの境界(きょうがい)を証するや。謂(い)う所は、真如(しんにょ)なり。転識(てんじき)に依(よ)るを以て説いて境界と為すも、而(しか)も此の証には境界有ること無し。唯だ真如智(しんにょち)のみなるを、名づけて法身(ほっしん)と為す。
 是の菩薩は、一念の頃(けい)に於いて能(よ)く十方(じっぽう)無余(むよ)の世界に至りて、諸仏を供養し、転法輪(てんぽうりん)を請うは、唯だ衆生を開導(かいどう)し利益(りやく)せんが為(ため)にして、文字(もんじ)に依らず。或いは地(じ)を超えて速やかに正覚(しょうがく)を成(じょう)ずと示すは、怯弱(こにゃく)の衆生の為なるを以ての故なり。戒いは我れ無量阿僧祇劫に於いて当(まさ)に仏道を成ずべしと説くは、懈慢(けまん)の衆生の為なるを以ての故なり。能く是(かく)の如き無数の方便を示すこと不可思議なり。而(しか)も実には菩薩の種性(しゅしょう)は根(こん)等しく、発心則ち等しく、所証(しょしょう)も亦た等しくして、超過の法有ること無し。一切の菩薩は皆、三阿僧祇劫を経(ふ)るを以ての故なり。但だ衆生の世界の同じからず、所見・所聞・根(こん)・欲(よく)・性(しょう)の異なるに随(したが)うが故に、所行を示すことも亦た差別(しゃべつ)有り。
 又、是の菩薩の発心の相には、三種の心の微細(みさい)の相有り。云何(いかん)が三と為す。一には真心(しんじん)。分別(ふんべつ)無きが故なり。二には方便(ほうべん)心(しん)。自然(じねん)に遍(あま)ねく行じて衆生を利益するが故なり。三には業識心(ごっしきしん)。微細に起滅(きめつ)するが故なり。
 又、是の菩薩は、功徳(くどく)成満(じょうまん)するとき、色究竟処(しきくきょうしょ)に於いて、一切世間の最高大の身を示す。謂(いわ)く、一念相応の慧(え)を以て、無明頓(にわか)に尽くるを一切(いっさい)種智(しゅち)と名づく。自然にして而も不思議の業有り、能く十方に現(げん)じて、衆生を利益す。
 問うて曰(いわ)く、虚空(こくう)無辺(むへん)なるが故に世界無辺なり。世界無辺なるが故に衆生無辺なり。衆生無辺なるが故に心行(しんぎょう)の差別(しゃべつ)も亦復(また)、無辺なり。是(かく)の如き境界は、分斉(ぶんざい)す可(べ)からず、知り難く解(げ)し難し。若し無明にして断ぜば、心想(しんそう)有ること無きに、云何が能く了(りょう)するを一切種智と名づくや。
 答えて曰く、一切の境界は本来▽むにして、想念を離れたり。〔しかるに〕衆生は妄に境界を見るを以ての故に、心に分斉有り、妄に想念を起こして法性に称(かな)わざるを以ての故に、決了すること能(あた)わず。諸仏如来は見想(けんそう)を離れたれば、遍(へん)ぜざる所無し。心(しん)真実(しんじつ)なるが故に、即ち是れ諸法の性なり。自体、一切の妄法(もうほう)を顕照(けんしょう)し、大智(だいち)用(ゆう)と無量の方便有りて、諸(もろもろ)の衆生の応(まさ)に解(げ)を得(う)べき所に随いて、皆、能く種種の法義を開示(かいじ)す。是の故に一切種智と名づくることを得(う)。
 又、問うて曰(いわ)く、若し諸仏に自然(じねん)の業有り、能く一切処(いっさいしょ)に現じて衆生を利益せば、一切の衆生、若しは其の身を見、若しは神変(じんぺん)を覩(み)、若しは其の説を聞きて、利を得ざること無けん。云何ぞ世間多く見ること能わざるや。
 答えて曰く、諸仏如来の法身(ほっしん)は平等にして、一切処に遍じ、作意(さい)有ること無きが故に、而(しか)して自然なりと説くも、但だ衆生の心に依(よ)りて現(げん)ずるなり。衆生の心は猶お鏡の如し。鏡にして若し垢(く)有れば、色像(しきぞう)は現ぜず。是(かく)の如く、衆生の心にして若し垢有れば、法身は現ぜざるが故なり。

第四章 修行信心分

 已(すで)に解釈分を説けり。次に修行(しゅぎょう)信心(しんじん)分(ぶん)を説かん。
 是の中、未だ正定聚(しょうじょうじゅ)に入らざる衆生に依るが故に、信心を修行することを説く。何等の信心を、云何(いかん)が修行するや。

  〔一 四種の信心〕
 信心を略説するに四種有り。云何が四と為す。一には、根本(こんぽん)を信ず。謂(い)う所は、真如(しんにょ)の法を楽念(ぎょうねん)するが故なり。二には、仏に無量の功徳有りと信ず。常に念じて親近(しんごん)し、供養し、恭敬(くぎょう)し、善根(ぜんごん)を発起し、一切(いっさい)智(ち)を願求(がんぐ)するが故なり。三には、法に大利益(だいりやく)有りと信ず。常に
念じて諸(もろもろ)の波離蜜(はらみつ)を修行するが故なり。四には、僧(そう)は能く正しく自利(じり)と利他(りた)を修行すと信ず。常に楽(ねご)うて諸の菩薩(ぼさつ)衆(しゅう)に親近し、如実の行を求学(ぐがく)するが故なり。

  〔二 五種の修行〕
 修行に五門有りて、能く此の信を成(じょう)ず。云何が五と為す。一には施門(せもん)、二には戒門(かいもん)、三には忍門(にんもん)、四には進門(しんもん)、五には止観(しかん)門(もん)なり。

〔1 施 門〕
 云何が施門を修行するや。若し一切の来たりて求索(ぐさく)する者を見れば、所有の財物をば力に随(したが)いて施与し、自ら慳貪(けんとん)を捨(す)つるを以て、彼をして歓喜(かんぎ)せしめよ。若し厄難(やくなん)・恐怖(くふ)・危逼(きひつ)を見れば、己が堪任(かんにん)するところに随いて、無畏(むい)を施与せよ。若し衆生の来たりて法を求むる者有らば、己が能く解(げ)するところに随いて、方便(ほうべん)して為(ため)に説け。応(まさ)に名利(みょうり)と恭敬を貪求(とんぐ)すべからず。唯だ自利・利他を念じて、菩提(ぼだい)に迴(え)向(こう)するが故なり。
〔2 戒 門〕
 云何(いかん)が戒門を修行するや。謂(い)う所は、不殺(ふせつ)、不盗(ふとう)、不婬(ふいん)、不両舌(ふりょうぜつ)、不悪囗(ふあっく)、不妄言(ふもうごん)、不綺語(ふきご)と、貪嫉(とんしつ)・欺詐(きさ)・諂曲(てんごく)・瞋恚(しんに)・邪見(じゃけん)を遠離(おんり)するなり。若し出家者ならば、煩悩を折伏(しゃくぶく)せんが為(ため)の故に、亦た応に憒閙(けにょう)を遠離し、常に寂静(じゃくじょう)に処し、少欲・知足・頭陀(ずだ)等の行を修習(しゅじゅう)し、乃至、小罪にも心に怖畏(ふい)を生じ、慚愧(ざんぎ)し改悔(かいけ)し、如来の制する所の禁戒(ごんかい)を軽んずることを得ざるべし。当に譏嫌(きげん)を護(まも)りて、衆生をして妄に過罪(かざい)を起こさしめざるべきが故なり。
〔3 忍 門〕
 云何が忍門(にんもん)を修行するや。謂う所は、応に他人の悩ますを忍びて、心に報いを懐かざるべし。亦た当に利衰(りすい)・毀誉(きよ)・称譏(しょうき)・苦楽(くらく)等の法を忍ぶべきが故なり。
〔4 進 門〕
 云何(いかん)が進門(しんもん)を修行するや。謂う所は、諸(もろもろ)の善事に於いて心懈退(けたい)せず、志を立つること堅強にして、怯弱(こにゃく)を遠離す。当に過去久遠(くおん)より已来、虚(むな)しく一切の身心の大苦を受けて利益(りやく)有ること無きを念ずべし。是の故に、応に勤めて諸の功徳を修し、自利(じり)・利他(りた)して、速やかに衆苦(しゅうく)を離るべし。
〔5 除障の方便〕
 復、次に、若し人信心を修行すと雖(いえど)も、先世より来(このかた)、多く重罪悪業の障(しょう)有るを以ての故に、魔邪・諸鬼の為(ため)に悩乱せられ、或いは世間の事務の為に種種に牽(けん)纏(てん)せられ、或いは病苦の為に悩まされ、是の如き等の衆多(しゅた)の障礙(しょうげ)有り。是の故に、応当(まさ)に勇猛(ゆうみょう)に精勤(しょうごん)して、昼夜六時に諸仏を礼拝(らいはい)し、誠心(じょうしん)に懴悔(さんげ)し、勧請(かんじょう)し、随喜(ずいき)し、菩提(ぼだい)に迴向(えこう)すべし。常に休廃(くはい)せざれば、諸の障を免るることを得て、善根(ぜんごん)増長するが故なり。
〔6 止観門〕
 〔① 止・観の定義〕
 云何が止観(しかん)門(もん)を修行するや。言う所の止とは、謂(いわ)く、一切の境界(きょうがい)の相を止(とど)むるなり。奢摩他(しゃまた)観(かん)に随順する義なるが故なり。言う所の観とは、謂く、因縁生滅の相を分別(ふんべつ)するなり。毘鉢舎那(びばつしゃな)観(かん)に随順する義なるが故なり。云何が随順する。此の二義を以て漸漸に修習(しゅじゅう)せば、相い捨離(しゃり)せずして、双(なら)び現前するが故なり。
 〔② 止門の修習〕
 若し止を修する者は、静処(じょうしょ)に住し、端坐(たんざ)して意を正しうせよ。気息(きそく)に依らず、形色(ぎょうしき)に依らず、空(くう)に依らず、地水火風(ちすいかふう)に依らず、乃至、見聞覚知(かくち)にも依らざれ。一切の諸想を、念に随(したが)いて皆除き、亦た除想をも遣(や)れ。一切の法は本より来、無相なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。亦た心外に随いて境界を念じ、後に心を以て心を除くことを得ざれ。
 心にして若し馳散(ちさん)せば、即ち当に摂(おさ)め来たりて正念(しょうねん)に住すべし。是の正念とは、当に知るべし、〔一切法は〕唯だ心のみにして外の境界(きょうがい)無し、と。即ち復(また)、此の心も亦た自相(じそう)無くして、念念に不可得(ふかとく)なり、と。若し坐より起ちて去来(こらい)進止(しんし)に施作(せさ)する所有らば、一切時に於いて常に方便(ほうべん)を念じ、随順して観察(かんざつ)すべし。久しく習して淳熟すれば、其の心住することを得ん。心住するを以ての故に、漸漸(ぜんぜん)に猛利(みょうり)にして、随順して真如(しんにょ)三昧(ざんまい)に入ることを得て、深く煩悩を伏し、信心増長して、速やかに不退(ふたい)を成(じょう)ぜん。唯だ疑惑と、不信と、誹謗と、重罪業障(ごっしょう)と、我慢と、懈怠(けたい)とを除く。是(かく)の如き等の人は入ること能(あた)わざる所なり。
 復、次に、是の如き三昧に依るが故に、則ち法界(ほっかい)一相(いっそう)なりと知る。謂(いわ)く、一切の諸仏の法(ほっ)身(しん)と衆生の身とは平等無二なり。即ち〔これを〕一行(いちぎょう)三昧(ざんまい)と名づく。当に知るべし、真如(しんにょ)は是れ三昧(さんまい)の根本なれば、若し人修行せば、漸漸に能く無量の三昧を生ず、と。
 或いは衆生有りて善根(ぜんごん)の力無ければ、則ち諸魔・外道・鬼神の為(ため)に惑乱(わくらん)せらる。若しは坐中に於いて形(すがた)を現(げん)じて恐怖(くふ)せしめ、或いは端正(たんしょう)なる男女(なんにょ)等の相を現ず。当に唯心なるを念ずべし、境界則ち滅して、終(つい)に悩を為さざらん。或いは天像・菩薩像を現じ、亦た如来の像の相好(そうごう)具足(ぐそく)せるを作(な)し、若しは陀羅尼(だらに)を説き、若しは布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)を説き、或いは平等、空(くう)・無相(むそう)・無願(むがん)、無怨(むおん)・無親(むしん)、無因(むいん)・無果(むか)、畢竟(ひっきょう)空寂(くうじゃく)なること是れ真の涅槃なりと説く。或いは人をして宿命(しゅくみょう)の過去の事を知らしめ、亦た未来の事を知らしめ、他心智(たしんち)を得て辯才(べんざい)無礙(むげ)ならしめ、能く衆生をして世間の名利(みょうり)の事に貪著(とんじゃく)せしむ。
 又、人をして数(しばしば)瞋(いか)り数(しばしば)喜びて性(しょう)に常准(じょうじゅん)無からしめ、或いは多く慈愛し、多く睡り、多く病みて、其の心をして懈怠ならしむ。或いは卒(にわ)かに精進を起こして、後に便(すなわ)ちすみ休廃(くはい)し、不信を生じて、多疑(たぎ)多慮(たりょ)ならしむ。或いは本の勝(しょう)行(ぎょう)を捨てて、更に雑業(ぞうごう)を修せしめ、若しは世事に著(じゃく)して、種種に牽(けん)纏(てん)せしむ。亦た能(よ)く人をして諸の三昧の少分の相似を得しむるも、皆、是れ外道の所得にして、真の三昧には非ず。或いは復、人をして若(も)しは一日、若しは二日、若しは三日、乃至、七日、定(じょう)中に住して、自然の香美(こうみ)の飲食(おんじき)を得て、身心適悦(ちゃくえつ)して飢えず渇せざらしめて、人をして愛著(あいじゃく)せしむ。或いは亦た人をして食(じき)に分斉(ぶんざい)無く、乍(たちま)ちに多く乍ちに少なくして、顔色(げんしき)を変異せしむ。是の義を以ての故に、行者は常に応(まさ)に智慧もて観察(かんざつ)して、此の心をして邪網(じゃもう)に堕(だ)せしむること勿るべし。当に勤めて正念(しょうねん)にして取(しゅ)せず著(じゃく)せざれば、則ち能く是の諸の業障(ごっしょう)を遠離(おんり)すべし。
 応に知るべし、外道の所有の三昧は、皆、見愛(けんあい)と我慢の心を離れず、と。世間の名利と恭敬(くぎょう)に貪著(とんじゃく)するが故なり。真如三昧とは見相(けんそう)に住せず、得相(とくそう)に住せず、乃至、定(じょう)を出づるも亦た懈(け)・慢(まん)無ければ、所有の煩悩漸漸に微薄(みはく)なり。若し諸の凡夫にして、此の三昧の法を習わずして如来の種性(しゅしょう)に入ることを得(う)とは、是の処(ことわり)有ること無し。世間の諸禅三昧を修すれば多く味著(みじゃく)を起こし、我見(がけん)に依りて三界(さんがい)に繋属(けぞく)し、外道と共なるを以てなり。若し善(ぜん)知識(ちしき)の所護(しょご)を離るれば、則ち外道の見(けん)を起こすが故なり。
 復、次に、精勤(しょうごん)して專心に此の三昧を修学する者は、現世に当(まさ)に十種の利益(りやく)を得(う)べし。云何(いかん)が十と為す。一には、常に十方の諸仏・菩薩の為に護念(ごねん)せらる。二には、諸魔・悪鬼の為に能く恐怖(くふ)せられず。三には、九十五種の外道と鬼神の為に惑乱せられず。四には、甚深(じんじん)の法を誹謗することを遠離して、重罪業の障(しょう)漸漸に微薄(みはく)なり。五には、一切の疑と諸の悪(あく)覚(かく)観(かん)を滅す。六には、如来の境界(きょうがい)に於いて信(しん)増長することを得。七には、憂悔(うけ)を遠離し、生死(しょうじ)の中に於いて勇猛(ゆうみょう)にして怯(こ)ならず。八には、其の心柔和(にゅうわ)にして、憍慢(きょうまん)を捨て、他人の為に悩まされず。九には、未だ定(じょう)を得ずと雖(いえど)も、一切の時、一切の境界の処に於いて、則ち能く煩悩を減損して、世間を楽(ねが)わず。十には、若し三昧を得れば、外縁(げえん)の一切の音声(おんじょう)の為に驚動(きょうどう)せられず。
〔③ 観門の修習〕
 復、次に、若し人、唯だ止を修するのみならば、則ち心沈没(ちんもつ)し、或いは懈怠(けたい)を起こして衆善(しゅぜん)を楽(ねが)わず、大悲を遠離す。是の故に観を修すべし。
 観(かん)を修習(しゅじゅう)する者は、当(まさ)に一切世間の有為(うい)の法は久しく停(とど)まることを得ること無く、須(しゅ)臾(ゆ)に変壊(へんね)し、一切の心(しん)行(ぎょう)は念念に生(しょう)滅(めつ)す、是れを以ての故に苦なりと観ずべし。応(まさ)に過去に念ぜし所の諸法は恍(こう)惚(こつ)として夢の如しと観ずべし。応に現在に念ずる所の諸法は、猶お電光の如しと観ずべし。応に未来に念ずる所の諸法は、猶お雲の忽(こつ)爾(に)として起こるが如しと観ずべし。応に世間の一切の有(う)身(しん)は悉(ことごと)く皆、不(ふ)浄(じょう)にして、種種の穢(え)汚(お)あり、一として楽(ねご)う可(べ)きもの無しと観ずべし。
 是(かく)の如く、当(まさ)に念ずべし、一切の衆生は無(む)始(し)世(せ)より来(このかた)、皆、無明(むみょう)に熏習(くんじゅう)せらるるに因(よ)るが故に、心をして生滅せしめ、已(すで)に一切の身心の大苦を受け、現在にも即ち無量の逼(ひっ)迫(ぱく)有り、未来の所苦も亦た分(ぶん)斉(ざい)無く、捨て難く離れ難くして、而(しか)も覚知せず、衆生、是の如く、甚だ愍(あわれ)む可しと為す、と。
 此の思(し)惟(ゆい)を作(な)して、即ち応に勇猛(ゆうみょう)に大誓願を立つべし。「願わくは、我が心をして分(ふん)別(べつ)を離れしむるが故に、十方に遍(へん)じて一切の諸善功徳を修行し、其の末来を尽くして、無量の方(ほう)便(べん)を以て、一切の苦悩の衆生を救(く)抜(ばつ)し、涅槃(ねはん)第一義の楽を得しめん」と。
 是の如きの願を起こすを以ての故に、一切の時・一切の処に於いて、所有の衆(しゅ)善(ぜん)を、己が堪(かん)能(のう)するところに随(したが)いて、修(しゅ)学(がく)することを捨てず、心に懈(け)怠(たい)無からしめよ。唯だ坐する時に止に專念するを除いて、若し余の一切には、悉く当に応(おう)作(さ)と不(ふ)応(おう)作(さ)とを観(かん)察(ざつ)すべし。
〔④ 止・観の倶行〕
 若しは行、若しは住、若しは臥、若しは起、皆、応に止・観倶(く)行(ぎょう)なるべし。謂(い)う所は、諸法は自性(じしょう)不生(ふしょう)なりと念ずと雖(いえど)も、而(しか)も復(また)、即ち因縁和合の善悪の業と苦楽等の報は失(しっ)せず壊(え)せずと念ずべし。〔また〕因縁と善悪の業(ごっ)報(ほう)とを念ずと雖も、而も亦た即ち性(しょう)は不(ふ)可(か)得(とく)なりと念ずべし。若し止を修せば、凡夫の世間に住(じゅう)著(じゃく)するを対(たい)治(じ)し、能く二乗の怯(こ)弱(にゃく)の見(けん)を捨(しゃ)せん。若し観を修せば、二乗の大悲を起こさざる狭(きょう)劣(れつ)の心(しん)過(か)を対治し、凡夫の善(ぜん)根(ごん)を修せざるを遠離(おんり)せん。此の義を以ての故に、是の止・観の二門は、共に相い助(じょ)成(じょう)し、相い捨離(しゃり)せず。若し止と観と具(ぐ)せざれば、則ち能く菩提(ぼだい)の道に入ること無し。

  〔三 專意念仏の方便〕

 復、次に、衆生初めて是の法を学びて正(しょう)信(しん)を欲求するに、其の心怯弱にして、此の娑(しゃ)婆(ば)世界に住するを以て、自ら常に諸仏に値(あ)いて親(しん)承(しょう)し供養すること能(あた)わざることを畏(おそ)れ、懼(おそ)れて信心成就す可(べ)きこと難しと謂(おも)いて、意の退せんと欲する者は、当(まさ)に知るべし、如来に勝(しょう)方便(ほうべん)有りて信心を摂(しょう)護(ご)したもうことを。謂(いわ)く、意を專らにして仏を念ずる因縁を以て、願に随(したが)いて他方の仏土に生ずることを得て、常に仏に見(まみ)えて、永く悪道を離るるなり。修(しゅ)多(た)羅(ら)に説くが如し、「若し人、專ら西方(さいほう)極楽(ごくらく)世界の阿弥陀仏(あみだぶつ)を念じ、修する所の善根をば廻向(えこう)して、彼の世界に生ぜんと願(がん)求(ぐ)せば、即ち往生(おうじょう)することを得ん」と。常に仏に見(まみ)ゆるが故に、終(つい)に退(たい)有ること無し。若し彼の仏の真(しん)如(にょ)法(ほっ)身(しん)を観じて、常に勤めて修習せば、畢(ひっ)竟(きょう)じて生ずることを得て、正(しょう)定(じょう)に住するが故なり。

第五章 勧修利益分


 已(すで)に修行信心分を説けり。次に勧(かん)修(しゅう)利(り)益(やく)分(ぶん)を説かん。
 是(かく)の如き摩訶衍(まかえん)は諸仏の秘蔵なり。我れ已に総(そう)説(せつ)せり。
 若し衆生有りて、如来の甚(じん)深(じん)の境(きょう)界(がい)に於いて正(しょう)信(しん)を生ずることを得て、誹謗(ひぼう)を遠離(おんり)し、大乗の道に入らんと欲せば、当(まさ)に此の論を持(じ)して、思量(しりょう)し修習(しゅじゅう)すべし。究竟(くきょう)して能(よ)く無上の道に至らん。若し人、是の法を聞き已(お)わりて怯弱(こにゃく)を生ぜざれば、当に知るべし、此の人は定(さだ)んで仏種(ぶっしゅ)を紹(つ)ぎ、必ず諸仏の為(ため)に授記(じゅき)せられん、と。仮使(たと)い人有りて、能く三千大千世界の中に満てる衆生を化(け)して、十善を行ぜしむとも、人有りて一食(いちじき)の頃(けい)に於いて正しく此の法を思わんには如(し)かず。前の功徳に過ぐること喩(たとえ)と為(な)す可(べ)からず。復(また)、次に、若し人、此の論を受持(じゅじ)して観察(かんざつ)し修行すること、若しは一日一夜ならんに、所有の功徳は無量無辺にして、説くことを得(う)可(べ)からず。仮令(たと)い十方の一切の諸仏、各(おのおの)無量無辺の阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)劫(こう)に於いて其の功徳を歎(たん)ずるも、亦た尽くすこと能(あた)わず。何を以ての故に。謂(いわ)く、法性(ほっしょう)の功徳は尽くること有ること無きが故に、此の人の功徳も亦復(また)、是(かく)の如く、辺(へん)際(ざい)有ること無し。
 其れ衆生有りて、此の論の中に於いて毀(き)謗(ぼう)して信ぜざれば、獲(う)る所の罪報は、無量劫を経(へ)て大苦悩を受けん。是の故に、衆生は但だ応に仰いで信ずべし。応(まさ)に誹謗すべからず。深く自らを害し、亦た他人をも害し、一切の三宝(さんぼう)の種(しゅ)を断絶するを以てなり。一切の如来は皆、此の法に依(よ)りて涅槃(ねはん)を得るを以ての故に、一切の菩薩も之(これ)に因(よ)りて修行して仏智(ぶっち)に入るが故なり。
 当に知るべし、過去の菩薩は、已(すで)に此の法に依りて浄(じょう)信(しん)を成(じょう)ずることを得たり、と。現在の菩薩も、今、此の法に依りて浄信を成ずることを得(う)。未来の菩薩も、当に此の法に依りて浄信を成ずることを得(う)べし。是の故に、衆生、応に勤めて修学すべし。

迴向偈


  諸仏の甚(じん)深(じん)にして広大なる義を、
  我れ今、分(ぶん)に随(したが)いて総持(そうじ)して説きたり。
  此の功徳の法(ほっ)性(しょう)の如くなるを迴(めぐ)らして、
  普(あま)ねく一切の衆生界(しゅじょうかい)を利(り)せん。

大乗起信論 一巻