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− | + | 「[[りょうべつ|了別]]」と訳されるもので、認知する働きのことである。「了別心」「縁慮心(えんりょしん)」「慮知心(りょちしん)」といわれる。唯識派では第六識の[[いしき|意識]]をいう。 | |
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− | + | もともとは心臓を意味し、この意の心を[[にくだんしん|肉団心]]と言い、通常は肉体の心臓部分を指す。また中心・心髄の意味も持っている。『[[はんにゃしんぎょう|般若心経]]』の「心」はhṛdayaであり、核心・心髄の意味である。 | |
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+ | 『華厳経』普賢品には'''信によって煩悩の消滅や法の理解が可能である'''と説いてあるが、これは禅定と智慧による、と説いてきた仏教の伝統と相違している。したがって、この矛盾を解明することによって大乗のこの究竟的な信の本質が明らかにされると思われる。『華厳経』の性起品では衆生心・菩提心と如来心・如来智・法身とは本来同一であると説かれている。すなわち、凡夫の心でさえ根本的には如来の心だということなのである。それゆえ、如来心とひとしい心による信によって煩悩が消滅するという主張も仏教の伝統とは矛盾していないことが明らかになるのである。換言すれば、'''如来を完全に信じきれば深層の自己中心的な分別が消滅され、それによって煩悩から遠離する'''、ということになるのである。 | ||
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「[[じょうしん|浄信]]」「澄浄(ちょうじょう)」「[[しんじん|信心]]」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「'''信'''」が看取される。 | 「[[じょうしん|浄信]]」「澄浄(ちょうじょう)」「[[しんじん|信心]]」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「'''信'''」が看取される。 | ||
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+ | 「信」の上から言えば、聖道門でいう信は「自力の信」である。ここから、心所法(倶舎論)、大善地法(唯識)に分類される。<br> | ||
+ | 『無量寿経』で説かれる「信」は、「prasāda」であり、これは「calmness, tranquility」である。 | ||
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+ | 「[[じょうしん|浄信]]」と訳されるprasādaには、古典サンスクリット語において「神の恩寵」の義はあっても、'''信者の側の信の義はみあたらない'''。それはけだし信ずる結果、心が澄んでわだかまりが解け、信ずればこそ内心に納得して悦び(prasanna,[[かんぎ|歓喜]])、かつは同意・同調する心のあり方をむしろ意味しているように思われる。 | ||
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「[[しんげ|信解]]」「勝解(しょうげ)」「[[しんぎょう|信楽]]」などと漢訳される。[[ちえ|智慧]]により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。 | 「[[しんげ|信解]]」「勝解(しょうげ)」「[[しんぎょう|信楽]]」などと漢訳される。[[ちえ|智慧]]により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。 | ||
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+ | これは√mucにadhiが付されたもので、「その上に心を解放する。その上に心を傾注する」という動詞に由来する。漢訳では、信解・勝解・解・解脱・欲楽・信楽・信などいろいろな訳語を与えているが、この語は「あるいは慧によって信解する」(或以慧為解)というような用い方が見られることから、特に、'''信の知性的な作用を示す'''ものということができるので、「信解」という訳語が最も原義に近いであろう。 | ||
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+ | 究極の立場。[[しょうぎ|勝義]]。 | ||
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+ | 精要。〔百五十讃〕 | ||
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+ | <big>kupito</big> (P)、<big>kupita; dveṣa; vyāpāda</big> (S) | ||
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+ | いかり・腹立ち・憎みいかること。うらみ。〔『倶舎論』16、『五分律』T22-197a、『理趣経』T8-784c〕 | ||
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+ | [[さんどく|三毒]]の一つ。 | ||
+ | 能破諸曀障 覺觀貪瞋癡 一切煩惱等 故我今敬禮〔『宝性論』T31-823c〕 | ||
+ | dosa (P)。dveṣa (S)の俗語形がdosaであり、これがサンスクリットに換言されるときにdoṣaとなった。 | ||
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+ | <big>pratigha</big> (S)<br> | ||
+ | [[あびだるま|阿毘達磨]]では、心作用のうちの[[ふじょうほう|不定法]]の一つ。憎しみ。心にかなわない対象を憎悪すること。自己の情に違背する事物に対して憎しみ、憤り、心身を平安ならしめない心作用をいう。〔『倶舎論』19〕 | ||
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+ | 唯識では6[[ぼんのう|煩悩]]の一つ。憎しみ。生きとし生けるものに対する冷酷な心。〔『[[ゆいしきさんじゅうじゅ|唯識三十頌]]』T31-60b、『[[じょうゆいしきろん|成唯識論]]』T31-31b〕 | ||
+ | : 瞋は我に背く事あれば善事にても必ず怒る心也。〔『唯識大意』〕 | ||
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2022年4月9日 (土) 17:53時点における最新版
目次
心
「こころ」とも訓じられる。(citta चित्त、hṛdaya हृदय (S))
「心」と漢訳された原語には多くがあり、「心(citta)」「意(manas)」「識(vijñāna, vijñapti)」などが挙げられ、同義異名であるとされる。
citta
種々の(citra)対象を認識するから、集める(cinoti)から、と語源的に解釈される。
前者の場合は六識を、後者の場合、特に唯識派のいう阿頼耶識を意味する。これは、過去の経験を集め貯蔵しているからで、それが未来の諸法を起こしていくところから「集起心」といわれたりする。
manas
思慮する働きであり、「思量心」といわれる。唯識派では「末那識」を指す。
vijñāna,vijñapti
「了別」と訳されるもので、認知する働きのことである。「了別心」「縁慮心(えんりょしん)」「慮知心(りょちしん)」といわれる。唯識派では第六識の意識をいう。
hṛdaya
もともとは心臓を意味し、この意の心を肉団心と言い、通常は肉体の心臓部分を指す。また中心・心髄の意味も持っている。『般若心経』の「心」はhṛdayaであり、核心・心髄の意味である。
その他の心
心を構成する重要な要素である感情や意志は、人間存在を五蘊ではその中の受と行に当たり、後世、心所の中に分析されている。
辛
kaṭuka (S)
辛さということの意味。〔倶舎論1-7〕
身
kāya (S,P)
身体。肉体。
anupādāna (S)
執せられた身体。無レ有レ身。〔中論〕
伸
prasārita (S)
手足を伸ばすこと。〔瑜伽師地論21、T30-397b〕
信
「śraddhā」の訳。十地法では「浄信」(prasāda)、「勝解」(adhimukti)、「信解」(avakalpanā)を掲げているが、『十住毘婆沙論』では信にまとめられている。
『華厳経』普賢品には信によって煩悩の消滅や法の理解が可能であると説いてあるが、これは禅定と智慧による、と説いてきた仏教の伝統と相違している。したがって、この矛盾を解明することによって大乗のこの究竟的な信の本質が明らかにされると思われる。『華厳経』の性起品では衆生心・菩提心と如来心・如来智・法身とは本来同一であると説かれている。すなわち、凡夫の心でさえ根本的には如来の心だということなのである。それゆえ、如来心とひとしい心による信によって煩悩が消滅するという主張も仏教の伝統とは矛盾していないことが明らかになるのである。換言すれば、如来を完全に信じきれば深層の自己中心的な分別が消滅され、それによって煩悩から遠離する、ということになるのである。
śraddhā
インドで仏教以前から用いられた単語で、仏教では「信」と漢訳した。
冷静で客観的な信頼を意味する。解脱に必要な五根や五力や七力の最初に数えられ、また心所の一つとして大善地法に配当されている。「信」は疑惑を除き悟りへの基盤であると考える。
prasāda
「浄信」「澄浄(ちょうじょう)」「信心」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「信」が看取される。
「信」の上から言えば、聖道門でいう信は「自力の信」である。ここから、心所法(倶舎論)、大善地法(唯識)に分類される。
『無量寿経』で説かれる「信」は、「prasāda」であり、これは「calmness, tranquility」である。
「浄信」と訳されるprasādaには、古典サンスクリット語において「神の恩寵」の義はあっても、信者の側の信の義はみあたらない。それはけだし信ずる結果、心が澄んでわだかまりが解け、信ずればこそ内心に納得して悦び(prasanna,歓喜)、かつは同意・同調する心のあり方をむしろ意味しているように思われる。
adhimukti
「信解」「勝解(しょうげ)」「信楽」などと漢訳される。智慧により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。
これは√mucにadhiが付されたもので、「その上に心を解放する。その上に心を傾注する」という動詞に由来する。漢訳では、信解・勝解・解・解脱・欲楽・信楽・信などいろいろな訳語を与えているが、この語は「あるいは慧によって信解する」(或以慧為解)というような用い方が見られることから、特に、信の知性的な作用を示すものということができるので、「信解」という訳語が最も原義に近いであろう。
眞;真
tathā; tattva-artha-naya (S)
あるがまま。さとり。真理。
tattvatas....(S)
究極の立場。勝義。
sāra (S)
精要。〔百五十讃〕
深
gambhira (S)
深遠な。〔中論〕
瞋
kupito (P)、kupita; dveṣa; vyāpāda (S)
いかり・腹立ち・憎みいかること。うらみ。〔『倶舎論』16、『五分律』T22-197a、『理趣経』T8-784c〕
三毒の一つ。
能破諸曀障 覺觀貪瞋癡 一切煩惱等 故我今敬禮〔『宝性論』T31-823c〕
dosa (P)。dveṣa (S)の俗語形がdosaであり、これがサンスクリットに換言されるときにdoṣaとなった。
pratigha (S)
阿毘達磨では、心作用のうちの不定法の一つ。憎しみ。心にかなわない対象を憎悪すること。自己の情に違背する事物に対して憎しみ、憤り、心身を平安ならしめない心作用をいう。〔『倶舎論』19〕
唯識では6煩悩の一つ。憎しみ。生きとし生けるものに対する冷酷な心。〔『唯識三十頌』T31-60b、『成唯識論』T31-31b〕
- 瞋は我に背く事あれば善事にても必ず怒る心也。〔『唯識大意』〕