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鎌倉時代には[[そうしょう|宗性]]、[[ぎょうねん|凝然]]が出て中興し、また[[こうべん|高弁]](=[[みょうえ|明恵]])が栂尾(とがのお)高山寺を開き、華厳の宗風を宣揚した。しかし江戸以降は檀(だん)信徒主体の宗派のなかで宗勢は振るわなかった。 | 鎌倉時代には[[そうしょう|宗性]]、[[ぎょうねん|凝然]]が出て中興し、また[[こうべん|高弁]](=[[みょうえ|明恵]])が栂尾(とがのお)高山寺を開き、華厳の宗風を宣揚した。しかし江戸以降は檀(だん)信徒主体の宗派のなかで宗勢は振るわなかった。 | ||
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2007年11月19日 (月) 09:05時点における版
華厳宗
日本では、南都六宗の一つであり、奈良の東大寺を総本山とする宗派。
教義
華厳宗の教義は、すべてのものの円融無碍(えんゆうむげ)なる関係を説くもので、大乗仏教の縁起説の究極的な発展形態を示す。密教の教理の背景は華厳思想にあり、さらに禅の思想のなかにも生きている。
東大寺を中心として栄えた華厳宗は、明治初年に浄土宗の所轄となったことがあったが、1886年(明治19)に一宗として独立し現在に至っている。
中国の華厳宗
唐代の杜順を始祖として、至相、賢首と相続し、彼が体系を作ったので、賢首宗とも呼ばれる。
賢首から、清涼、宗密と続き、以上の5人が大唐の五組と言われる。
宋代の浄源は、大唐の五祖の上に、インドの馬鳴と龍樹を置いて七組を唱えた。
『華厳経』を所依の経典とし、天台宗と並んで中国仏教の双璧(そうへき)といわれる。東晋(とうしん)末、北インド出身の僧ブッダバドラ(仏駄跋陀羅)によって『華厳経』が翻訳されてから、『華厳経』の研究が盛んとなり、とくに511年にはインドの論師バスバンドゥ(世親)の著書『十地経論』(『十地経』として単独で流布した『華厳経』十地品(じゅうじぼん)に解釈を施した論書)が、勒那摩提と菩提流支の2人によって伝訳された。この『十地経論』を所依として南北朝時代に成立した学派が地論宗である。地論宗南道派から出た浄影寺の慧遠は、『大乗義章』を著して地論宗の教義を大成した。その地論宗の教義が華厳宗成立の学問的基礎となった。
一方、『華厳経』を信仰するグループもつくられ、華厳宗成立の基盤が成熟した。そこに現れたのが神秘を現ずる杜順であり、彼が華厳宗の信仰面における宗祖とされた。また新しく中国に伝えられた玄奘の唯識説を採用しながら、従来の地論宗の学説を発展させたのが、華厳宗の第二祖とされる智儼である。この智儼の学問を受けて華厳宗の哲学を大成させたのが賢首大師法蔵であった。それ以後、澄観(ちょうかん)、宗密(しゅうみつ)が出て華厳宗を中興させたが、優れた後継者が得られず、禅宗の勃興(ぼっこう)に押されて衰亡した。宋(そう)代に一時復興したが、その後は衰微した。
日本の華厳宗
日本には、公式には、天平8年、唐の道璿が来朝して、華厳の章疏を伝えた。
これ以前に、新羅の審祥が唐に行き、賢首について華厳を学び、来朝して大安寺に住んだという記録が残っている。天平12年、良辨が審祥を東大寺に迎えて、初めて華厳を講義させたことが初めである。
鎌倉時代には宗性、凝然が出て中興し、また高弁(=明恵)が栂尾(とがのお)高山寺を開き、華厳の宗風を宣揚した。しかし江戸以降は檀(だん)信徒主体の宗派のなかで宗勢は振るわなかった。