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− | + | 音写語では、「修多羅(しゅたら)」「修妬路(しゅとろ)」。sūtraは動詞√sīv(縫う、貫く)から作られた中性名詞。a thread、string、line、cordなどと英訳される。古くから、「貫穿(かんせん)の意」あるいは「縫綴(ほうてい)の義」があると解釈された。 | |
− | + | 元来、正統バラモンに属する分野では、簡潔な言葉で要点のみを述べた文献で、一般に、昔の聖人が著わし、記憶に便利な言葉をさした。<br> | |
− | + | 仏教では、釈尊の教えが文章の形で表現されたものを経(スートラ)と呼ぶ。これらは、[[しゃか|釈迦]]の[[にゅうめつ|入滅]]直後に行われた第1回の経典の編纂事業([[けつじゅう|結集]])をはじめ、その後2回ほどの編纂を経て、整理された。大乗仏教の成立以後も、「般若経典」をはじめとする種々の大乗経典が編纂された。大乗経典は、やはりsuutraと呼ばれるが、長文で厖大なものが多い。 | |
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− | + | 仏教最古の用例は、[[くぶきょう|九部経]]・[[じゅうにぶきょう|十二部経]]のうち、第一分に置かれる「経」である。<br> | |
:諸経の中に散説する文句なり.諸行無常諸法無我涅槃寂静と説くが如し [[だいびばしゃろん|大毘婆沙論]](巻126) | :諸経の中に散説する文句なり.諸行無常諸法無我涅槃寂静と説くが如し [[だいびばしゃろん|大毘婆沙論]](巻126) | ||
:[[じょうごう|長行]]の直説にして,諸法の体を摂するもの [[けんようしょうぎょうろん|顕揚聖教論]](巻12) | :[[じょうごう|長行]]の直説にして,諸法の体を摂するもの [[けんようしょうぎょうろん|顕揚聖教論]](巻12) | ||
− | + | 「端的に法の内容を簡略にまとめた聖典中の散文」という意味。この意味での「経」は,仏教聖典が経[[りつ|律]]二蔵(にぞう)に分かれる以前のもので、律蔵中の[[はらだいもくしゃ|波羅提木叉]]やこれと併行する発達過程をたどった[[ちゅうぶ|中部]](分別品(135-140経))、[[ちゅうあごん|中阿含]](根本分別品(31,162-164,169-171))などに見られる。 | |
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:如是我聞(によぜがもん)よりないし歓喜奉行にいたる,かくの如きの一切を修多羅と名づく [[だいじょうねはんぎょう|大乗涅槃経]](北本巻15) | :如是我聞(によぜがもん)よりないし歓喜奉行にいたる,かくの如きの一切を修多羅と名づく [[だいじょうねはんぎょう|大乗涅槃経]](北本巻15) | ||
− | といわれるように、「如是我聞―歓喜奉行」形式のもので、[[ | + | といわれるように、「如是我聞―歓喜奉行」形式のもので、[[あごんきょう|阿含]]から[[だいじょう|大乗]]にいたるまでの多くの個別経典の一般形式である。パーリ聖典では、「中部」中の経典はすべて「~sutta」と名づけられ、長い経典を集めた「[[ちょうぶ|長部]]」では「~suttanta」と名づけられて区別され、いずれも「経」と漢訳されている。 |
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*gocaraは認識が行われる範囲 | *gocaraは認識が行われる範囲 | ||
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+ | あるものに到達した場合の心の状態・環境(境地・境界)なども「境」という。 | ||
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+ | 広く認識対象一般をいう。原語としてはālambanaとviṣayaとがあるが、前者は、多くは「[[しょえん|所縁]]」と訳される。広く認識される対象一般をいう場合は、後者のviṣayaが用いられることが多い。viṣayaは「[[きょうがい|境界]]」と訳されることもある。<br> | ||
+ | なお認識されるもの(知られるもの)を意味するjñeyaも「境」と訳される場合もあるが、多くは「[[しょち|所知]]」と訳される。<br> | ||
+ | 「境(ālambana)に心を住せしめる」「何れの法が何れの識の境(ālambana)となるや」「」「必ず境(viṣaya)ありて識、乃ち生ずることを得る」 | ||
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+ | mada (skt) の訳。 | ||
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+ | 心所(心のはたらき)の一つ。自己に属するものについて自らの心のおごりたかぶること。[[くしゃしゅう|倶舎宗]]では、小随煩悩地法の一つ。[[ゆいしきしゅう|唯識宗]]では、小随煩悩の一つに数える〔他に対して心のおごりたかぶるのは[[まん|慢]]という〕。<br> | ||
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+ | ==八憍== | ||
+ | # 盛壮憍 元気盛んなことの誇り | ||
+ | # 姓憍 血統の勝れていることの誇り | ||
+ | # 富憍 | ||
+ | # 自在憍 自由の誇り | ||
+ | # 寿命憍 長寿の誇り | ||
+ | # 聡明憍 | ||
+ | # 行善憍 善行の誇り | ||
+ | # 色憍 容貌の誇り | ||
+ | 〔法華文句巻6〕 |
2018年6月16日 (土) 11:18時点における最新版
経
(skt.)sūtra सूत्र。「きょう」と読むのは仏教であり、それ以外の宗教では「けい」と読む。また、「契経(かいきょう)」「貫経(かんぎょう)」「正経」「聞経」「本経」「契」「文」などと訳すことがあった。
音写語では、「修多羅(しゅたら)」「修妬路(しゅとろ)」。sūtraは動詞√sīv(縫う、貫く)から作られた中性名詞。a thread、string、line、cordなどと英訳される。古くから、「貫穿(かんせん)の意」あるいは「縫綴(ほうてい)の義」があると解釈された。
元来、正統バラモンに属する分野では、簡潔な言葉で要点のみを述べた文献で、一般に、昔の聖人が著わし、記憶に便利な言葉をさした。
仏教では、釈尊の教えが文章の形で表現されたものを経(スートラ)と呼ぶ。これらは、釈迦の入滅直後に行われた第1回の経典の編纂事業(結集)をはじめ、その後2回ほどの編纂を経て、整理された。大乗仏教の成立以後も、「般若経典」をはじめとする種々の大乗経典が編纂された。大乗経典は、やはりsuutraと呼ばれるが、長文で厖大なものが多い。
初期の用例
仏教最古の用例は、九部経・十二部経のうち、第一分に置かれる「経」である。
「端的に法の内容を簡略にまとめた聖典中の散文」という意味。この意味での「経」は,仏教聖典が経律二蔵(にぞう)に分かれる以前のもので、律蔵中の波羅提木叉やこれと併行する発達過程をたどった中部(分別品(135-140経))、中阿含(根本分別品(31,162-164,169-171))などに見られる。
個別経典
- 如是我聞(によぜがもん)よりないし歓喜奉行にいたる,かくの如きの一切を修多羅と名づく 大乗涅槃経(北本巻15)
といわれるように、「如是我聞―歓喜奉行」形式のもので、阿含から大乗にいたるまでの多くの個別経典の一般形式である。パーリ聖典では、「中部」中の経典はすべて「~sutta」と名づけられ、長い経典を集めた「長部」では「~suttanta」と名づけられて区別され、いずれも「経」と漢訳されている。
経蔵
個別の経典を集めて編纂した叢書としての経蔵(śūtra-piṭaka)を「経」と呼ぶ。それに対して、戒律に関する文献を集めたものを律蔵(Vinaya-piṭaka)を「律」と呼ぶこともある。
境
viṣaya、artha、gocara (skt.)
認識作用の対象。
- viṣayaは認識の対象となる領域
- 眼などの五識は現在の境(viṣaya)を取る
- 必ず境(viṣaya)ありて識、乃ち生ずることを得る
- は認識の対象となる事物
- 眼などの五根は各別の境(artha)を了別す
- gocaraは認識が行われる範囲
というのが原意であるが、どれも認識作用(vijñāna、識)の対象の意で用いられる。これに色・声・香・味・触・法の「六境」があり、それぞれ眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、および六識に対応する。
あるものに到達した場合の心の状態・環境(境地・境界)なども「境」という。
広く認識対象一般をいう。原語としてはālambanaとviṣayaとがあるが、前者は、多くは「所縁」と訳される。広く認識される対象一般をいう場合は、後者のviṣayaが用いられることが多い。viṣayaは「境界」と訳されることもある。
なお認識されるもの(知られるもの)を意味するjñeyaも「境」と訳される場合もあるが、多くは「所知」と訳される。
「境(ālambana)に心を住せしめる」「何れの法が何れの識の境(ālambana)となるや」「」「必ず境(viṣaya)ありて識、乃ち生ずることを得る」
憍
mada (skt) の訳。
心所(心のはたらき)の一つ。自己に属するものについて自らの心のおごりたかぶること。倶舎宗では、小随煩悩地法の一つ。唯識宗では、小随煩悩の一つに数える〔他に対して心のおごりたかぶるのは慢という〕。
八憍
- 盛壮憍 元気盛んなことの誇り
- 姓憍 血統の勝れていることの誇り
- 富憍
- 自在憍 自由の誇り
- 寿命憍 長寿の誇り
- 聡明憍
- 行善憍 善行の誇り
- 色憍 容貌の誇り
〔法華文句巻6〕