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むみょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2019年2月18日 (月) 10:47時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (無明)

無明

 avidyā (S)、漢語「無明」(むめい、明無し)は目が見えない意味。
 vidyā (S)は、「knowledge, learning, science, right knowledge」などと訳されているように、正しく知ることという意味の名詞である。その否定形であるから、正しく知ることができないという意味になる。その意味から、「本能」という解釈をすることもある。
 vidyāの本である動詞は√vidであり、「know, understand, learn, find out」である。

 仏教語としての無明〈むみょう〉は、人生や事物の真相に明らかでないこと。すべては無常であり固定的なものはなにもない(無我)という事実に無知なこと。この無明がもとで固執の念(我見)をおこし、さらに種々の煩悩の発生の元となる。
 迷いの根本で、愚癡(moha)とも言われ、貪欲瞋恚と合わせて三毒と言われる。

十二縁起の無明

 また、十二因縁の第1支とされ、無明を縁として・…・老死諸法が生じ、無明が滅すれば、それらの諸法は滅するという。
 十二縁起の無明支を解釈して、『阿含経』では仏教の真理(四諦)に対する無智であるとし、渇愛と表裏の関係にあるものと見る。
 説一切有部では十二縁起を三世両重の因果を説くものと見て、無明をもって過去の煩悩の位における五薀を指すとし、その位の諸煩悩中で無明のはたらきが最もすぐれているから無明と名づけるという。
 唯識では二世一重の因果で解釈し、無明ととはなどの五果の種子を引く能引支であって、そのうちで第六意識と相応する癡で善悪のをおこすものを無明とする。

初期仏教

無明こそ最大の汚れである。比丘たちよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。  法句経 243

倶舎論

無明とは能く真実の義を見るを障うるが故に称して瞑となす。    〔T29-161c〕

毘婆沙論

 無明について、不達〈ふたつ〉・不解〈ふげ〉・不了〈ふりょう〉と定義している。

瑜伽師地論

 諸々の事象を正しく了知しないことを無明とする。
 さらに「相応無明」と「独行無明」の2種を説く。相応無明は、貪など他の煩悩と結合するもの。独行無明(または不共〈ふぐう〉無明)は、他の煩悩と結合せず、ただ四諦などの道理を知らず愚闇なことをいう。

有部や唯識

 有部や唯識では無明を相応〈そうおう〉無明と不共〈ふぐう〉無明との二無明に分ける。前者はなどの根本煩悩と相応して共に起こるもの、後者は相応しないで起こるものである。
 不共無明はひとりで起こるから独頭〈どくず〉無明ともいう。ただし、唯識では不共無明をさらに恒行〈ごうぎょう〉不共無明と独行〈どくぎょう〉不共無明とに分ける。前者は第七末那識と相応する無明で、貪などの根本煩悩と相応して起こるものではあるが、すべての凡夫の心につねにたえまなくはたらく点で第六意識と相応する無明と異なるから、それ故に不共と称するとし、後者は第六意識と相応する無明で、他の根本煩悩と相応しないでひとりで起こるから不共と称するとする。この独行不共無明を、随煩悩と倶に起こらないで独り起こるか否かによって、さらに主独行無明と非主独行無明とに分ける。
 また唯識では無明を種子現行とに分け、常に衆生につき随い、第八阿頼耶識の中にかくれ眠っている無明の種子を随眠〈ずいみん〉無明といい、これに対して現れて現在にはたらく無明の現行を、衆生にまといつき衆生を縛りつけて、生死(迷いの世界)につなぎとめる意味から纏〈てん〉無明という。この纏無明には相応と不共とがあるから、随眠・纏・相応・不共の4種となり、これを四種無明(四無明)と名づける。
 また根本と枝末と、共と不共と、相応と不相応と、迷理と迷事と、独頭と倶行〈くぎょう〉と、覆業〈ふくごう〉と発業〈ほつごう〉と、種子子時と行業果〈ぎょうごうか〉と惑との15種の無明に分けることもある。

勝鬘経

 『勝鬘経』には、見惑および三界修惑である貪などと相応する相応無明を四住地の惑(見一切住地・欲愛住地・色愛〈しきあい〉住地・有愛〈うあい〉住地の4で、はじめの一は見惑、あとの三は三界の修惑を意味する)と名づけ、独行不共の無明を無始無明住地の惑とし(合わせて五住地の惑)、この無明住地はすべての煩悩の起こる根本で、ただ如来の菩提智〈ぼだいち〉だけがこれを断ちうるとする。

起信論

 『大乗起信論』では無明は「不覚」であるとし、この不覚を根本無明と枝末〈しまつ〉無明との2無明に分ける。
 根本無明は根本不覚、無始の無明、元品〈がんぼん〉の無明、忽然念起〈こつねんき〉の無明ともいわれ、また元初の一念ともいう。即ち真如平等の理に了達しないが故に、忽然として差別対立の念が起動するその元初であって、諸々の煩悩の元始であり、迷妄のはじめであるから、他の煩悩に由って生じたものではない。それ故に「忽然」という。極めて微細〈みさい〉であり、そのために心王(こころ)と心所(心のはたらき)とを区別することのできない状態である。これは即ち無始無明住地の惑にほかならないと見られる。
 枝末無明は枝末不覚ともいわれ、根本無明によって起こされた末梢的な染汚心で、三細六麁の惑業である。

一法界に達せざるを以ての故に、心に相応せずして、忽然として念の起こるを名づけて無明となす。    〔T32-577c〕

大乗義章

癡闇之心體無慧明故。曰無明。〔T44 p.547a〕

 これから、無明の体は愚痴の煩悩である。愚痴であるから、一切の業煩悩を起こす。

摩訶止観

 中国の天台大師智顗は『摩訶止観』 の中で、の3諦・3観によって、それぞれ見思〈けんじ〉・塵沙〈じんじゃ〉無明の三惑を断つとし、無明とは非有非空の理に迷い、中道を抑えるものとする。
 この無明を断つのに、別教では十廻向で伏し、初地以上の十二階位で十二品の無明(まとめて十二品の無明があるとする)を断ちおわるとする。この場合、十廻向の最後の第十廻向で初めの無明を断って初地に入るが、この初めの無明をまた三品に分けて断つから、これを三品〈さんぼん〉の無明という。
 円教では初住以上の四十二階位で四十二品の無明(まとめて四十二品の無明があるとする)を断ちおわるが、この場合第五十一位である等覚の最後心で妙覚智が顕れ、それによって断たれる最後の無明を、元品の無明、無始の無明、最後品の無明という。ただしこれは一往の説で、実は円教では三観には順序次第を立てず、一心をもって観ずるのであるから、三惑は同体で同時に断たれるという。