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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 漢訳語「空」はサンスクリットのシューンヤ(śūnya; suñña, 形容詞)またはシューンヤター(śūnyatā; suññatā, 抽象名詞)を原語とし、何かが欠落している状態、何もない状態、数学ではゼロを意味する。
 サンスクリットの「シューンヤ」は、たとえば「ひと気のない寂しい場所」、ひとのいない「空」屋、意識「喪失」状態、王が「空位」の王国といった一般的用例に見られるように、欠落状態を示し、語感としても消極的なイメージをともなう。また訳する場合に形容詞「シューンヤ」と抽象名詞「シューンヤター」との区別を明確にしたいと思えば、前者を「空(無)な」、後者を「空(無)であること、空性」といったようにしたほうが適切であり、漢訳語「空」の場合には少なくとも文字上はこの区別が立てにくいので注意を要する。
 「AはBのシューンヤなものである」、すなわち「AはBの空なものである、AはBを欠いている、AにBはない」というのが「シューンヤ」という語の現われる基本的かつ一般的構文であり、「この大ホールは象の空なものである」、より日本語的には「このホールに象はいない」という文がそうであり、「空屋」の場合は「この家屋はひとの空なものである」という構文を予想し、欠落している「ひと」が「ひと」の住むべき「家屋」との意味連関で充分に了解可能なのでそれを明示していないだけである。仏教、少なくともインド仏教で「空」「空性」と言われる場合にはつねにこの構文と意味連関とを予想している。心に貪欲がなくそれから自由であることは「心は貪欲の空なものである」と表現され、また五蘊無我であることを、について「空」を用いて示すときには、「色は我と我所(我に属するもの)の空なものである」という文になり、さらに欠落しているものが了解可能なとき、あるいは欠落しているものよりもそれの欠落状態のほうを強調したいときには、「色は空なものである(「色即是空)」という表現になる。ところが、この構文における主語のAとそれに欠落しているBとの関係に仏教徒は強い関心をもち、「空」の意味論的な範囲を越え、三昧縁起を観じることとの重要視を通じて、いわば存在論・認識論・修道論のなかで、その関係をはっきりさせようとした。すべてのものには不変な独自的存在性(我)はないという無我の理念は大乗仏教のなかでより徹底され、ものは縁起している、原因条件をまってはじめて存在しえているから何の自性、実体性をもたない、無自性のものであるという空思想を生みだした。AとBとが別個の存在である場合は問題ないとしても、Aの自性に固執しているときに、ひとはAとAの自性を同一視して「AはAである」「AはAの空なものではない」、と言いつづけ執着を強める。しかし、縁起概念を媒介として、AはAの自性をもたない、なぜならば縁起しているから、と観じれば、Aへの執着から離れることができる。「AはAの自性の空なものである」、「AはAの空なものである」、さらに省略して「Aは空である」ということが明らかになり、その「A」が一般化された結果として「すべてのものは空である(一切皆空)」と観じることができれば、その認識のあり方こそ般若波羅蜜智慧の完全な状態)であり、菩提へ通じる道となる。このように「空」「空性」を主軸とする空思想は初期の大乗経典である一連の般若経と龍樹(NAgArjuna, 150-250頃)の『中論』などによって明確にされ、それ以降の大乗仏教の思想に大きな影響を与えた。したがって、空思想は大乗仏教の基本とされるが、そのことは、空思想が一見するに存在論的認識論的な様相を呈しながら、そのじつ、衆生菩薩が、なぜ、何のために、何を、どのようにして空と観じるか、という修道論をつねにその素地としてもっていたからであろう。

原始・アビダルマ仏教

 「空」「空性」という用語、あるいはそれを基軸として、のちに大乗仏教で展開されるような空思想は、原始仏教において中心的な役割を演じてはいない。ただしその用語の仏教的な意味づけはすでになされており、その意味では空思想の淵源を原始仏教に求めることも、あながち的外れではない。原始経典ではすべてのものを無常無我と観じることが勧められるが、北伝の阿含経においてはこれらの三概念と「空」が並列されることがあり、「すべてのものは空なものである」と観じることも語られている。また欲望から自由になる方法として重要視される三昧、精神統一は、ひと気のない寂しい場所にあるひとのいない「空屋」で実践されるべきであるという記述がしばしば見られ、そのような場所で得られる三昧は、ものを空なもの()、概念で捉えられないもの(無相)、人間の期待願望とは無関係なもの(無願)と見る空・無相・無願の三三昧としてまとめられ、これらは解脱へいたる方法でもあるために三解脱門として定着する。
 仏・仏弟子たちがしばしば実践している清らかな精神状態は「空住」、すなわち「空である状態」とされ、それを得る方法、それを得た状況を説くものとして『小空経』『大空経』が現存する。さらに日常的真理(世俗諦)と究極的真理(勝義諦第一義諦)との二諦の考えを導入して少し発達したものとして『第一義空経』が存在したことが知られる。それらの経典においては「空」という語の使用される基本的な構文に従って内省を深める方法が示され、部分的には縁起観と空観との密接な関係づけも行なわれていたと推定される。
 アビダルマ仏教になると原始経典を背景としてについての研究が部派ごとに推進されるが、あらゆるものを無常・苦・空・無我と観じること、そのなかでも無我を観じることが必須であるとされる。しかしその無我観は、部派によって相違があるものの、説一切有部に見られるように、あるものを構成要素に分解してその実体性を否定し、要素自体の存在性は是認するものであった。原始仏教の場合と同様に空三昧を含む三三昧あるいは三解脱門は説かれるが、それらを理論的に追求することはなされていない。ただし一部においては空性を主軸とする三昧が多面であって、その深まり方に程度の差があることに注目し、空性の分類が行なわれている。『舎利弗阿毘曇論』の六空、『雑阿毘曇心論』の九空、『大毘婆沙論』の十空がそれであり、これらは次に述べる般若経の記述と連絡しあう。

空思想の発展

 大乗経典のなかでも比較的はやい時期にスタートしたと思われる般若経は、新しい大乗的な菩薩の観念を発達させた。その担い手にはどちらかといえば出家者が多かったと思われるが、彼らは僧院を拠点とするアビダルマ仏教とは一線を画している。自ら無上の菩提に到達せんとする菩提心を起こし、また他者を菩提に導こうという利他誓願を鎧のように身にまといながら、彼らはひと里離れた場所で、また行住坐臥つねに菩薩として行に励んだ。布施・戒・忍・精進・禅定・般若の六波羅蜜がその行の綱格をなし、これらのうち第六の般若波羅蜜、すなわち智慧の完全な状態は布施などを通じて得られる究極的なものであり、かつそれらの完全性を内から支えるものとして最も重視される。般若経はその立場から仏が語ったことを内容とし、同時に担い手たちにとっては般若波羅蜜に到達する方途を示す意味をもった。完全な智慧は日常的なあれやこれについての認識・知識とは異なる。通常の人間は「あれはこう」「これはこう」と区別し判断しては、それらに執着しているが、智慧はその執着を断つをもつとともにそれから解放された菩提、仏のさとりにほかならない。一連の多様な般若経のなかで諸法の不生不滅が説かれるのは、「ものが生じる」「ものが滅する」とする日常的な判断を破壊するためであり、また諸法の空性が説かれるのも、ものは日常的なことばが予想するような自性をもたないとして、ものへの執着を断つためである。「すべてのものは空である」と観じることは、ここで完全な智慧へ通じる方途とされており、原始仏教の無我観や「空性」の考えは深化されている。また空性の分類も進み、たとえば『大品般若経』では、内空・外空・内外空(それ ぞれ、内的・外的なものの空性)、空空・大空・第一義空(究極的な空性)、有為空・無為空・畢寛空(作られたもの。作られないもの、その全体の空性)、無始空、散空(分析的な空性)、性空(本性的な空性)、自相空(特殊的なものの空性)、諸法空、不可得空(知覚できない意味での空性)、無法空・有法空・無法有法空(実体性・非実体性についての空性)といった十八空(異説あり)が説かれるようになる。

龍樹

 般若経自体は南インドに関係が深いが、龍樹はその担い手たちの一人であったと思われる。彼は般若経の智慧を重視する思想が釈尊自身の実践的な縁起と中道の思想を直接継承するものと考え、『中論』などの著作によって、すべてのものの空性をきわめて精緻な論理を使って明確にしようとした。その論法は鋭く、日常的なことばが意味のうえで予想しがちな実体性、自性を徹底して破壊するものとなっており、わずかでも実体的・有的なものを認める意見があればその立場を容赦なく批判した。つまり有的な傾向をもった当時のアビダルマ仏教も、他学派とともに激しい批判を受けるのである。
 まず『中論』第1章第1偈は

 いかなる存在者であれ、それ自体から生じたものは決してなく、また他のものから、自と他との両者から、また原因なくして生じたものは決してない。

と述べる。原因と結果の関係を同一(自)、別異(他)、同一かつ別異(自他)、同一でも別異でもなく結果が原因をもたない(無因)という4つの場合に分類し、その想定をすべて否定している。タネから芽が出てくるのを例として、第一の場合を考えれば、「芽は芽と同じタネから生じる」というのは芽がタネと完全に同一ではないために論理的にはおかしいし、まんいち芽がタネと完全に同一だとすれば芽はすでに芽として存在しているはずであり、新たに芽が生じるとするのは無意味となる。原因のタネと結果の芽を同一と想定すれば、このような論理上の不合理が起こり、この想定はその正しさが否定されざるをえない。ほかの場合についても同様であり、結果として「芽はタネから生じる」という判断は誤りと断定される。この断定はわれわれの日常的な経験と矛盾するようだが、実はそうではない。われわれは生き生きとした発芽現象を「タネ」「芽」「生じる」ということばで方が真実(諦)として一体となっている(三諦円融)とされ、インド仏教で緊張を保っていた個と全体の問題は、全体のなかで個々の区別は無意味となるという方向で融合され、相即的な論理を生みだしている。この意味で中国的な無の思想を背景とする、たとえばの思想は、有の根底に無を見、それをバネとして有の世界にもどり、結果においてすべてを肯定する傾向にあると言ってよい。インドで虚無的と解されがちな空の思想が、中国では無の思想としてインドとは違った積極性をもったのである。