操作

じょうどしそう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

浄土思想

 浄土思想が成立したのは、インドにおいて大乗仏教が興起した時代であり、それは浄土経典の編纂というかたちをとって現われた。ここに、浄土思想あるいは浄土経典というのは、阿弥陀仏の極楽浄土に関する思想あるいは経典を指していう。「浄土」というのは中国で成語化された用語であるが、思想的には初期大乗仏教の「仏国土」(buddhakṣetra)にさかのぼりうるものであり、事実、阿弥陀仏以外の多くの仏国土が説かれている。しかし、今日、浄土といえば、一般に阿弥陀仏の国土を指すものとされている。これは、古来、中国・日本の仏教において阿弥陀仏の浄土がさかんに信仰の対象とされ、仏国土の代表的なものとみなされてきたための慣用である。
 浄土思想に言及する経典は多数あるが、そのうちの代表的なものは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のいわゆる「浄土三部経」である。しかし、この3経ははじめからまとめて編纂されたわけではなく、まず『無量寿経』と『阿弥陀経』が成立し、 その後かなり遅れて『観無量寿経』が編纂されたと考えられる。したがって、浄土思想の内容を知るためには、まず『無量寿経』と『阿弥陀経』の原初形態の教説を知る必要がある。『無量寿経』については、現行本は康僧鎧訳と伝えられるが、実際は仏陀跋陀羅、宝雲の共訳(421)と考えられる。異本としては、漢訳4本のほかにサンスクリット原典とチベット訳があり、またコータン語訳、ウィグル語訳、西夏語訳の断片も発見されている。これらを対照してみると、各異本のあいだに発達段階のあることが知られ、その原初形態は西紀100年頃北西インドにおいて成立したものと推定される。
 内容は、過去久遠の昔、法蔵(Dharmākara)菩薩が無上の菩提心を起こし、一切衆生を救済するために、四十八の本願(異本では、二十四願、三十六願、四十七願、四十九願)を立て、途方もなく長いあいだ菩薩行を実践し、ついに本願を成就して阿弥陀仏(無量寿仏)となったが、すでに成仏してから十劫を経ており、現に西方の極楽(安楽、安養, Sukhāvatī)と名づける世界(浄土)に住して説法しているという。続いて、阿弥陀仏と極楽浄土のありさまをくわしく描写し、この浄土への往生を願う人びとを上、中、下の三種類(三輩)に分け、念仏を中心とした種々な行法によって往生しうることを説き明かしている。
 次に『阿弥陀経』については、現行本の鳩摩羅什訳(402頃)のほかに異本として漢訳一本とサンスクリット原典およびチベット訳、ウイグル語訳、西夏語訳があるが、原初形態は『無量寿経』のそれとほぼ同じ時代、同じ地域で成立したものと推定される。内容は、阿弥陀仏の極楽浄土のすがたを簡明に描写し、この浄土に往生するための行として念仏を説き、さらに六方の世界の諸仏もこの教えを称讃していることを述べている。これを『無量寿経』と対比すると、たとえば阿弥陀仏の原名について、『無量寿経』がアミターバ(Amitābha、無限の光明をもつもの)を主とするのに対して、『阿弥陀経』はアミターユス(Amitāyus、無限の寿命をもつもの)を主とするというように、いくつかの相違点があるが、しかし両経は浄土思想の原初形態を示すものとして対応、共通している。
 以上の『無量寿経』と『阿弥陀経』とが成立したのち、浄土思想は時代の経過とともに大きな展開をとげるにいたった。地域的に見れば、その主流はインドから中央アジアを経て中国・日本に展開した浄土思想である。このうち、インドから中央アジアへ展開する過程にはまだ不分明な点が多いが、中国と日本の浄土思想については、それぞれの浄土教家たちの著作や行実を通して、その展開の跡をほぼ明瞭にたどることができる。

インド・中央アジア

流行

 浄土思想がインドにおいて広く流行した事実は、阿弥陀仏や極楽浄土に関説する大乗経論が多数存在することによって確かめられる。漢訳経論を手掛かりとして調査すると、異訳を除いて一経論一訳の計算で、約二百部の経論を数えることができる。後世「諸教の讃ずるところ多く弥陀に在り」(荊渓湛然)といわれる所以である。また、考古学的遺品のうえでも、近年マトゥラー市郊外で、クシャーナ王朝のフヴィシカ王時代の銘文をもつアミターバ仏像の台座が発見された。これは、すでに2世紀にインド本土で阿弥陀仏信仰が流布していた事実をうらづけている。また紀年は不明であるが、ガンダーラ三尊形式の浮き彫り彫刻のなかにも、その台座の銘文にカローシュテイー文字でアミターパと観音に言及するものが発見されている。後世の密教文献を見ると、阿弥陀仏は大日如来を中心とする五仏の一つとみなされており、浄土思想がやがて密教に吸収されてしまった事情を物語っている。このように、浄土思想はインドにおいて広く展開した形跡を残しているが、その過程もしくは発展のなかで後世の浄土教にとって大きな意義をもつ以下の文献が現われた。

『十住毘婆沙論』易行品

 この書は龍樹の著作といわれるが、鳩摩羅什訳(408頃)だけで伝えられるものであり、 2~3世紀のの思想家としての龍樹の真作かどうか疑わしい。思想的に注目されるのは、大乗の菩薩道を陸路の歩行にたとえて勤行精進の難行と、水路の乗船にたとえて信方便易行とに分け、後者の易行道によって不退の位にいたりうるとして、阿弥陀仏の憶念・称名を重視していることである。これは、浄土思想を仏教全体のなかに位置づける点で大きな役割をはたした。ただし、ここで説かれる称名説は訳者によって付加されたと見る推定もあり、なお問題は残されている。

『無量寿経優婆提舎願生偈』(通名『浄土論』または『往生論』)

 この書は4~5世紀の瑜伽行唯識思想の大成者である世親の著作とされるが、これを信ずれば、インド仏教において浄土思想を組織的に解明した唯一の論書とみなされる。しかし、現存するのは菩提流支訳(529または531)のみであり、そこで予想されている『無量寿経』の実体も明瞭でないから、インド的形態を復原するためには十分な検討を必要とする。構成は詩句と散文からなるが、散文の部分で、極楽に生まれるために、礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・廻向門という5つの実践法(五念門)を説き、特に観察門については、阿弥陀仏の国土、仏、菩薩の3種のすぐれた姿を詩句に照らして詳説している。

『観無量寿経』

 「浄土三部経」の一つとしての本経は畺良耶舎訳(424または430-442頃)と伝えられるが、現在ウイグル語訳断簡があるほかには、サンスクリット原典や異訳もない。このほか種々の点から、本経がインドで編纂されたと見ることが困難であり、おそらく4~5世紀頃中央アジアでその大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が増広、加味されたのではないかと推定される。内容は、阿弥陀仏とその浄土を観想する13種の観法を説き、さらに浄土に往生するための9種のあり方(九品往生)を3種の観法のかたちで示し、あわせて十六観によって浄土往生思想を高揚したものである。
 見仏を目的とした念仏三昧に加えて南無阿弥陀仏の称名を明説し、たとい極悪人でも称名によって往生が可能であると説く点に異色がある。この経典が中国・日本の浄土思想に与えた影響はきわめて大きい。

中国

 中国の浄土思想は後漢、三国時代における浄土思想関係の経典の翻訳に端を発したが、その思想展開については3つの流れを認める説がある。
 第一は廬山慧遠(334-416)が創始した白蓮社の流れで、『般舟三昧経』にもとづき、見仏を目的として念仏三昧を修する系統である。
 第二はいわゆる「浄土三部経」などを中心として曇鸞(476?-542?)に始まり、道綽(562-645)を経て善導(613-681)によって大成された流れで、日本の浄土教の源流となった系統である。
 第三は慈愍三蔵慧日(680-748)が提唱した、浄土、戒律を合修する流れで、中国後代の諸宗融合思想に影響を与えた系統である。
 このように3流に分けるのは、中国の文献にはみあたらず、日本の法然以来の見方であり、実際中国仏教ではこのほかにも浄土思想と深い関係をもつ人びとがいろいろ現われているが、しかしこの三流の見方は中国浄土思想の概要をよく捉えたものといってよい。このうち、浄土思想そのものの深化を示すという点では、第二の流れが重要である。

曇鸞

 世親の『浄土論』に対する注釈『浄土論註』(『往生論註』)を著わした。冒頭に龍樹の難易二道の説を引き、易行道を阿弥陀一仏の本願力による浄土往生と解し、その願力を他力と名づけた。また『無量寿経』と『観無量寿経』を照合して悪人往生の可能性を強調し、世親の五念門について独自な解釈を試み、廻向門には往相還相の二つがあるとする。浄土往生の意味については「無生の生」を説くなど空観の立場からの解明を行ない、他方中国固有の民間信仰も援用して、浄土思想を中国に定着せしめる基礎を築いた。

道綽

 曇鸞を敬慕して、その思想を継承し,『安楽集』を著わした。そこで強調されているのは、仏教全体を聖道門浄土門の二つに分け、浄土往生の教えを末法の時代における劣った資質をもつ人間に適応したものと見たことである。その意図するところは、おもに『観無量寿経』の趣意を明らかにすることにあり、そのために『浄土論註』をはじめ多くの諸経論を引用し、中国撰述の偽経までも教証としている。阿弥陀仏とその浄土について独自な報身・報土説を述べ、安楽(極楽)は「浄土の初門」であり、「穢土の終処」であるわれわれの世界と境界を接しているので、往生にはなはだ便利であるとした。道綽は称名念仏には小豆を用いてその数をはかったといわれ(いわゆる小豆念仏)、念仏の行法を華北に広く流布せしめた。

善導

 道綽に師事した善導には五部九巻の著作があるが、思想的には『観無量寿経疏』(『観経疏』)が代表作であり、『観無量寿経』について古今を措定する独自な解釈を示した。この経典の十六観を定善十三観、散善三観に分け、全体を凡夫のために説かれたものと見て、たとい五逆や正法を誹謗する極悪人でも浄土往生ができるとした。往生の正因として特に至誠心深心廻向発願心の三心を重視し、そのうち深心については、一つには自己が罪悪深重の凡夫であることを深く信じ、二つには阿弥陀仏の本願力による往生を深く信ずることを説き(いわゆる二種深信)、さらに往生の行因として読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五種の正行を示し、これらを正定の業と助業とに分け、称名こそが正定の業であると説いた。こうして、善導によって称名念仏が確立し、中国浄土思想が大成するにいたった。

日本

 浄土信仰はすでに7世紀前半に伝えられたが、奈良時代になると、三論宗の智光(?-776頃)などが浄土経論について本格的研究を行なうようになった。次いで平安時代に入ると、浄土思想はしだいに大きな展開を見せてくる。天台宗の円仁(794-864)が中国五台山の念仏三昧法を伝え、常行三昧堂を建立したが、これが「山の念仏」と呼ばれる比叡山の浄土教を形成する淵源となった。その思想的流れを受けて良源(912-985)が『極楽浄土九品往生義』を著わしたが、他方、市聖と呼ばれた空也(903-972)のように民衆のなかに浄土思想を鼓吹する人も現われた。やがて源信(942-1017)が『往生要集』を著わし、これを指南とした念仏の集会が結成され、天台浄土教が盛行するにいたった。天台系の念仏者として良忍(1073-1132)が出て融通念仏宗の祖となったが、天台以外でも、三論宗の永観(1033-1111)や真言宗の覚鑁(1095-1143)のように浄土信仰をもつ人が輩出した。平安末期から鎌倉時代に入ると、法然(1133-1212)によって浄土宗が開創され、弟子の親鸞(1173-1262)は浄土真宗の開祖となり、一遍(1239-1289)は時宗を開いた。これら浄土教各宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における大きな流れを形成して現在に及んでいるが、思想史的に特に注目されるのは法然と親鸞である。

法然

 主著『選択本願念仏集』を通して知られることは、源信の『往生要集』にもとづいて浄土思想を深め、そのうえに立って善導の『観経疏』によって「偏に善導一師に依る」ことを明説して口称の専修念仏を確立したことである。法然は、いま末法にあっては聖道門をしばらくさしおいて浄土門を選び、浄土門のなかでもしばらくもろもろの雑行をなげうって正行を選び、その正行のなかでも助業をかたわらにして正定の業である称名を選ぶべきことを説く。つまり、善導に導かれて、浄土往生の行として口称念仏の一行を選びとったのである。こうして、法然は「浄土宗」という宗名を立て、その所依の経論として「浄土三部経」と世親の『往生論』を決定し、師資相承の血脈として菩提流支―曇鸞―道綽―善導―懐感―小康の系譜を明らかにした。法然の行実を見ると、『観経』や善導を通して三昧発得見仏体験に大きな意義を認める一面、あるいは授戒をたびたび行なうなどを重視する一面も見られるが、専修念仏の浄土宗を開創したことによって、鎌倉期以降の浄土教の主流が形成されることになった。

親鸞

 主著『教行信証』をはじめとしてかなり多くの著作を残しており、その内容は多彩、豊富であるが、思想的に最も注目されるのは、念仏を阿弥陀仏から廻向された本願他力の念仏であり信心であると受けとったことである。法然が口称念仏という行を説いたのに対し、親鸞はそのような念仏における自力的なものをすべて捨てて絶対他力の行とを見出した。真実なるものは仏の側にあり、凡夫の側には虚仮、不実しかないという痛烈な自己反省を通して仏の救済の絶対性を信じたのであり、信心こそが往生の正因であると説いた。そして、この信心を確立した人は、この世において仏になるべき身に定まったもの(現生不退)であるとした。親鸞の行実を見ると、法然とは異なって戒の受持を否定し、「非僧非俗」の立場で結婚をし、在家仏教的性格を明瞭に表わしているが、一宗を開くという意識はなかった。こうした親鸞の思想の深化と独自な実践は、浄土教の長い歴史を通じて従来には見られなかった新しい展開であり、浄土思想の一つの頂点を示したものということができよう。

参考文献

  • 望月信亨『浄土教の起源及発達』共立社、昭5(復刊、山喜房仏書林、昭47)
  • 石田充之『浄土教教理史』平楽寺書店、昭37
  • 石田瑞磨『浄土教の展開』春秋社、昭42
  • 藤田宏達『原始浄土思想の研究』岩波書店、昭45
  • 藤田宏達『観無量寿経講究』東本願寺出版部、昭60