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(パーラ王朝の退潮)
(パーラ王朝の退潮)
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===パーラ王朝の退潮===
 
===パーラ王朝の退潮===
 パーラ王朝の勢力は次第に衰え、10世
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 パーラ王朝の勢力は次第に衰え、10世紀後半にはその父祖の地ヴァレンドラを失い、現在のビハール州一帯を支配するにすぎなくなった。第十代のナヤパ-ラ(1038~1055)の時代にも、カラチュリ王カルナとの間に闘争がくり返された。有名な仏教僧アティーシャが身命を顧みずに両者の和睦をはかったのもこの時期のことであった。11世紀の中葉にはマガダ支配も名のみのものとなった。ヴィグラハパーラ三世(在位1055~1077)には三子があったが、その長子マヒーパーラニ世(在位1070~1075)と他のふたりとの間に内紛があるのに乗じ、王朝の重臣ディヴヤが王位を簒奪した。ディヴヤは有能な将軍で、その勢力を拡張し、ヴァレンドワをもその支配下においた。しかし、ヴィグラハパーラ三世の第三子ラーマパーラ RQmapAla が奮起し、劇的な戦闘ののちに、ディヴャの後継者ピーマを倒して、父祖の地ヴァレンドラを回復した。ラーマパーラは即位して第十四代の王となり、ラーマヴァティーに都を定めた。ラーマパーラ(在位1077~1120)の時代がパーラ王朝最後の輝かしい時代であるとともに、インド仏教の最後の隆盛期でもあった。このころ、ヴァレンドラにはジャガッダラ僧院があり、ヴィクラマシラーに次いで教学の中心となっていた。
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===プラジュニャーカラマティ===
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 おそらく10世紀と思われるが、プラジュニャーカラマティ PrajJAkaramati がシャーンティデーヴァの『[[にゅうぼだいぎょうろん|入菩提行論]]』に大部な注釈(bodhicaryāvatāra-pańjikā)を書いている。彼も中観瑜伽派に属している。
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===ジュニャーナシュリー・ミトラ===
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 この時代の仏教は全般的には密教の勢力が強かったが、それにもかかわらず、経量瑜伽派、中観瑜伽派の伝統を継ぐ哲学者も続々とあらわれた。これらの哲学者たちのうちには、同時に密教者であった者も多い。<br>
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 このころ、仏教哲学に対抗する勢力のうちでもっとも強力だったのは、ニヤーヤ学派で、とくに10世紀のトリローチャナ Trilocana、その弟子ヴァーチャスパティ・ミシュラ Vācaspatimiśra(976前後、一説では841前後に活躍)が、ダルマキールティ以来の仏教の知識論を批判した。これに対して立ち上がるのがジュニヤーナシュリー・ミトラ Jñānaśrīmitra(980~1030ころ活躍)で、『刹那滅論』kṣaṇabhańgā-dhyāya、『有神論批判』Īśvaravādādhikāra その他の著作によって、ニヤーヤ学派批判を展開した。また彼は、『有形象知識論』sākārasiddhi を著わし、経量瑜伽派の立場から仏教諸理論の統一を企図した。
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===ラトナキールティ===
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 ジュニャーナシュリー・ミトラの弟子ラトナキールティ Ratnakīrti(1000~1050ころ活躍)は、独創的な著作は著わさなかったが、その師の難解大部な諸著作のほとんどすべてを平易な文章で要約し、紹介した。
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===ラトナーカラ・シャーンティ===
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 経量瑜伽派に対立し、シャーンタラクシタの確立した中観瑜伽派を代表する学者にラトナーカラ・シャーンティ Ratnākaraśānti がいる。彼は『般若波羅蜜多諭』prajñāpāramitopadeśa を著わし、仏教諸学派、とくに経量瑜伽派の理論を批判し、中観と唯識を統一した理論を展開した。彼の理論はジュナーナシュリー・ミトラによって批判されているが、チベットでは後者以上に評価されるに至った。

2024年11月3日 (日) 16:47時点における版

目次

インド仏教史

紀元前5~4世紀

都市と王権と自由思想

 インドにおけるアーリア人の東進が一段落し、彼らがガンガー河の肥沃な平原に定住したのちは、経済生活が向上し、多数の都市が生まれた。これらの都市を中心とした群小国家は次第に強力な王国に併合され、紀元前5世紀ころにはコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの4大国が栄えた。これらの国では壮大な都市が営まれ、王族の権力と商工業者の実力が増大し、これまでのバラモン(司祭階級)を最上層とする階級制度はゆらぎ、ヴェーダ文化の権威も疑われて、自由思想家が輩出するに至った。懐疑論、唯物論、快楽主義なども勢いを得た。また、出家遊行しながら禅定を修め、真理の探究に努める人、沙門 śramaṇa も多くなった。ジャイナ教や仏教の開祖もそのような沙門のひとりである。

ゴータマ・ブッダ

 ヒマラヤ山麓に小国を成し、カピラ城に都していたシャーキャ族 Śākya の王子シッダールタ Siddhārtha は、ルンビニー園(現在のネパールのルンミンディー)に生まれた。成長後、ヤショーダラー Yaśodharā を妃とし、一子ラーフラ Rāhula をもうけた。
 しかし、人生に対して懐疑をいだき、29歳(一説に19歳)で出家し、諸国を遍歴してヨーガや苦行に努めたが、それらに満足せず、ついにブッダガヤー(現在のボードガヤ)の菩提樹下に瞑想して最高の境地に達し、覚めたる者、仏陀 buddha となった。そして、鹿野苑(現在のサルナート)での説法をはじめとして伝道を開始した。
 現在のビハール、ウッタル・プラデーシュの2州にあたる地域を主として教化活動を行ない、短期間のうちに多くの弟子と在家信者の帰依を得た。
 45年間にわたる伝道ののち、クシナガラ(現在のカシア)において80歳の命を閉じた。遺体は火葬にされ、遺骨は信者の手によって分骨され、8箇所に建てられたストゥーパ(塔)に納められた。

仏陀の没年

 仏陀の没年については、カシュミールの説一切有部の Sarvāstivādin, Vaibhāṣka の所伝を根拠にして計算した紀元前383年の説や、セイロン上座部 Theravāda の所伝をもとにした紀元前485年の説がある。その他前478年など、数種の有力な異説が現代の諸学者の間にあって、学問的にはまだ決着をみていない。

第1回結集

 仏陀の入滅した年に、ラージャグリハ(王舎城)において、マハー・カーシャパ Mahā-kāśyapa(大迦葉)の司会による500人の弟子たちの会議が行なわれた。ウパーリ Upāli (優波離)が戒律を、アーナンダ Ānanda (阿難陀)が教法を、それぞれ聞きおぼえていたままに暗誦し、それらを参集者が承認してその教義を確認したという。

紀元前4~3世紀

アレキサンドロス大王のインド侵入

 紀元前327年に、アレクサンドロス大王がアケメネス帝国の征服を完遂する目的でインドに侵入した。彼はインダス河畔にまで到達したが、そこから西方に兵を引き返した。しかし、その結果、イラン高原から中央アジアの一部に数多くのギリシア人植民地が出現した。

マウリヤ王朝とアショーカ王

 マガダでは、仏陀の時代以後も、大国による小国併合が進行したが、やがてハリヤンカ、シャイシュナーガ、ナンダの強力な諸王朝が続々とあらわれた。
 紀元前317年ころにチャンドラグプタがナンダ王朝を倒してマウリャ王朝 Maurya を創立した。彼はギリシア人の勢力を西方に遠く駆逐して北インドを平定し、パータリプトラ(現在のパトナ市)に都を定めた。この王朝は支配圏をさらに拡張し、チャンドラグブタの孫のアショー力王 Aśoka(前268即位)の時代には、インドの南端近くからヒマラヤまでのインド準大陸の大部分と、西はアフガニスタンからアラコシアに至る版図を有し、インド史上最大の帝国となった。アショーカ王はその偉業の記録とともに道徳的訓戒を法勅として発布し、それを石柱や磨崖に刻ませた。彼はまた、宗教を奨励し、とくに仏教を重んじ、自ら仏跡を巡拝したり、インド内外の各地に仏教の伝道師を派適したりした。セイロンにはマヒンダ Mahinda がおもむくが、これが南方仏数の発端となった。

第2回結集

 仏陀の没後110年(一説に100年)にして、ヴァイシャーリー(現在のビハール州北部)に700人の比丘が集まり、第2回の僧団会議を催した。
 このとき、進歩的な多数派が、時代と地域に適応するよう戒律の穏健な解釈十項目を提案したが、長老たちがこれに反対したために、以後仏教教団は、進歩的な大衆部 Mahāsṃghika と保守的な上座部 Sthavira-vāda, Theravāda とに分裂した。分裂の原因としては、上座部の理想とする聖者阿羅漢 arhat の人格に対する疑惑をはじめとする教理的な見解の相違も含まれていたと思われる。この教団の分裂がアショー力王の治下においてか、それ以後に起こったかは判明していない。

モッガリプッタ・ティッサ

 アショーカ王の仏教教団に対する供養をめあてに、資格のない者たちが教団に多数潜入したために混乱が起きた。王に招かれたモッガリプッタ・ティッサ Moggaliputta Tissa は上座部以外の非正統的な比丘を追放し、『論事』Kathā-vatthu を著わして正統説を論定した。

紀元前2~紀元後1世紀

ギリシア人と仏教

 アショーカ王の没後、マウリヤ王朝は衰退し、やがてプシヤミトラのシュンガ王朝(前187~175)にかわったが、プシヤミトラは仏教を迫害した。この王朝は長期の安定勢力とはならず、インドは再び分裂した。くわえて西北インドからはギリシア人が侵入しはじめた。ギリシア人の建設したパクトリア王国の勢力は、紀元前2世紀中葉にはガンダーラおよびパンジャープを支配した。これらのギリシア人は排外的なバラモン教に受け入れられなかったために、多くは仏教を信仰するに至った。『ミリンダ王の問い』(『那先比丘経』)Milindapañha はギリシア系諸王のひとりメナンドロスと仏教僧ナーガセーナ Nāgasena との問答を記録している。

スキタイ人、パルチア人と仏教

 紀元前1~紀元後2世紀の間、シャカ(スキタイ人)とパフラヴァ(パルチア人)がインドに侵入し、西北インドにおいてギリシア系の勢力と交替したが、文化的には逆に彼らのほうがギリシア化された。また同じように、彼らも仏教を信仰し、ストゥーパや寺院を建立した。

仏教諸部派の展開

 第二回僧団会議(結集)以後2派に分裂した仏教は、次第にさらに多くの部派に分裂した。紀元前後を境にして、学説や地域的な相違にもとづいて18ないし20の部派が成立するに至った。
 有力な部派は自派固有の三蔵(経、律、論)をそなえ、また各部派はそれぞれの地域の俗語を用いていた。南方仏教の聖典である現行のパーリ三蔵もその一つである。これらの三蔵は口誦によって伝承されていた。三蔵が文字に写されたのは紀元前1世紀にセイロンにおいて行なわれたのをはじめとする。

紀元後2世紀

クシャーナ王朝とカニシュカ王

 バクトリアの大月氏の支配下にあったトカーラ族の部族長の一つ、クシャーナ(貴霜)は紀元前後を境に次第に強大な勢力となり、大月氏と交替してクシャーナ帝国を築き、西北インドにも侵入した。王朝の第3代カニシュカ王 Kaniṣka はおそらく2世紀の前半に即位し、数十年間王位にあったが、バクトリア、西域、北インドをおおう広大な領域を支配した。この王朝は紀元後3世紀にササン朝ペルシアに滅ぼされるまで続いた。カニシュカ王は熱心な仏教者で、その保護のもとに仏教は著しく発展した。

仏教詩人の活躍

 カニシュカ王の友人のひとりであったアシュヴァゴーシャ Aśvaghoṣa(馬鳴)は、才能豊かかなサンスクリット詩人で、『仏所行讃』Buddhacarita、『端正なるナンダ』Saundarananda、『金剛針論』Vajrasūcī などを著わした。
 また、ややおくれてマートリチェータ Mātṛceta も『四百讃』、『百五十讃』などによって詩人の誉れが高かった。

アビダルマ哲学の展開

 クシャーナ王朝治下においては、諸部派のほかに大乗仏教も興起しているが、とくにその部派の一つである説一切有部(略して有部)が、その存在分折の哲学、アビダルマの体系を整備して発展した。『集異門足論』をはじめとする六足論、および『発智論』Abhidharma-jñānaprasthāna-śāstra の、いわゆる七論が次々に制作された。とくに『発智論』はカーティヤーヤニープトラ Kātyāyanīputra の作といわれ、この学派の教学において重要な意味をもつ、2世紀後半から3世紀にかけて、有部教学の集大成である『阿毘達磨大毘婆沙論』Abhidharma-mahāvibhāṣa-śāstra も成立した。この書ではヴァスミトラ Vasumitra(世友)、ダルマトラータ Dharmatrāta(法救)、ゴーシャカ Ghoṣaka(妙音)、ブッダデーヴァ Buddhadeva(覚天)のいわゆる4大論師などの学説が紹介され、異端、異教を退けて正統説を確立しようとした。この論書があまりにも大部なものであったため、その後『阿毘曇心論』その他の有部教義綱要書が所かれるようになった。パーリ聖典中のアビダルマも逐次整備されてきた。

大乗仏教経典の完成

 大衆部系統の仏教者の中では、従来の出家仏教の最高理想である阿羅漢にかわる理想的人格が追求され、また一般社会と隔絶した僧団生活の自利主義に対する批判も生まれていた。さらに、諸部派の理知的、分析的思考に対して、ヨーガの実践を中心とした神秘主誰、形而上学的思弁、信仰の重視などの新思想も発展してきた。これらの新興思想はストゥーパを中心とした一般信者の集団を基盤とし、利他と自己犠牲を本質とする菩薩の理想をかかげ、ヨーガの体験にもとづく空思想を教理的根拠として新しい仏教運動を展開した。
 紀元前1~紀元後3世紀の間に、『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『無量寿経』、『維摩経』、『宝積経』(迦葉品)などの諸経典が続々と制作、増補、編纂された。紀元後2、3世紀には、この運動は一応、完成の域に述した.

仏教美術の発展

 宗教的修行者たちの禅定の実践のためと彼らの住居とにあてるために、石窟を開掘するならわしはすでにマウリヤ王朝時代にも盛んであったが、そのならわしはその後ますます発展し、紀元前1世紀からのちは、とくにデカン西部地方の諸所に石窟寺院が開掘された。これらは主としてアーンドラ王朝の富裕な王族や豪商、またはシャカ族などの寄進によったが、何代も引き継いで拡張されたために、アジャンター、エローラなどの大規模なものも成立するに至った。
 一方北インドではクシャーナ王朝の初期にギリシア風の美術が出現し、力ニシュヵ王の治世に最高期を迎えた。これはガンダーラ美術とよばれている。同じころ、ヤムナー河畔のマトゥラーを中心にした美術も興り、従来偶像化されることなく象徴的にのみ表現されてきた仏陀も、これらの美術では彫像されることになり、数多くの仏像、菩薩像が制作されるようになった。

3世紀

南インドの安定勢

 マウリヤ王朝崩壊後、北インドは政治的に安定しなかったが、南インドでは、サータヴァーハナ(またはシャータヴァーハナ)王朝のアーンドラ王国が紀元前2世紀から長く安定した勢力を築き、平和を保った。この王朝は紀元後200年ころまで繁栄するが、その後イクシュヴァークその他の部族に周辺地域を侵略され、最終的にはグプタ王朝に吸収された。その盛期にはクリシュナ川流域に、仏教およびヒンドゥ教の寺院が大規模に造営された。

ナーガールジュナ

 おそらく南インド、ヴィダルバ地方に生まれたと推察されるナーガールジュナ Nāgārjuna(龍樹、150~250ころ)は、『般若経』prajñāpāramitā-sūtra の真理にもとづいて、のちに中観哲学とよばれる思想体系の始祖となった。彼はサータヴァーハナ王朝に関係したと思われる。クリシュナ川右岸にナーガールジュナ・コンダという地名が残っている。
 著書に『中論』madhyamakaśāstra、『論争の超越』vigrahavyāvartanī(『廻識論』)その他多数あり、大乗仏教の理論的基礎を確立し、後世、八宗の祖師と仰がれた。

アーリヤ・デーヴァ

 ナーガールジュナの弟子、アーリヤ・デーヴァ Ārya-deva(聖提婆)は、『四百論』catuḥsataka その他の著述によってさらにこの学派を伸展させた。
 これらふたりはともに「空」の哲学の主唱者であって、仏教内では有部系のアビダルマ哲学、仏教外ではサーンキヤ学派やヴァイシェーシカ学派などの実在論哲学をしきりに批判した。とくにアーリヤ・デーヴァは、その批判の鋭さがわざわいして、異教徒に殺害されたと伝えられている。

4~5世紀

グプタ王朝とインド文化の黄金時代

 マガダ出身のチャンドラグプタが中インドを平定してグプタ王朝を創立し(320)、その子サムドラグプタは南インドをも併合してほとんど全インドを統一した。この王朝の最盛期は5世紀後半ないし6世紀初頭に及び、文芸、学問、宗教その他各方面においてインド文化の黄金時代を迎えた。

経量部の発展

 アビダルマ仏教最大の勢力である説一切有部の中にも、カシュミール系とガンダーラ系との分裂がはじまった。後者は経量部の影響を強く受け、のちにその代表的著作として『倶舎論』が制作された。経量部は有部から分派した比喩師たちや、クマーララータ Kumāralāta、シュリーラータ Śrīlāta、ハリヴァルマン Harivarman などによって表象主義的な理論を発展させたが、3~4世紀にはかなり有力な学派に成長した。

後期大乗経典の出現

 3世紀末から4世紀にかけて、いわゆる|自性清浄心説や如来蔵思想を説く『如来蔵経』tathāgatagarbha-sūtra 、『勝鬘経』śrīmālādevīsiṃhanāda-sūtra 、『涅槃経』mahāparinurvāṇa-sūtra などが編纂され、また同じころ、唯識学派の根本聖典である『解深密経』saṃdhinirmocana-sūtra が成立した。さらにのちに『楞伽経』lańkāvatara-sūtra が出現した。

法顕のインド旅行

 シナの僧、法顕は、経・律の原典を求めるため、60歳をすぎた399年に長安を出発し、413年に青州に帰来するまで、インド各地を旅行した。

鳩摩羅什

 401年に長安にきた鳩摩羅什 Kamārajīva (344~413または350~409)は、シナで仏典の翻訳に従い、中観仏教をこの地へ移入した。

マイトレーヤとアサンガとヴァスバンドゥ

 マイトレーヤ Maitreya (弥勒)は歴史上の人物か否かが疑われてもいるが、350~430年ころの人と推定されている。これに師事したアサンガ Asańga(無著)は375~430年ころ、あるいは395~470年ころ、その弟ヴァスバンドゥ Vasubandhu(世親)は400~480年ころと推定されている。これら3人のうちの前2者、マイトレーヤあるいはアサンガによって、『瑜伽師地論』yogācāra-bhūmi、『大乗荘厳経論』mahāyāna-sūtrāṃkāra、『中正と両極端との弁別』madhyānta-vibhāga(『中辺分別論』)、『現観荘厳論』abhisamayālaṃkāraなどが著わされ、アサンガにはまた『摂大乗論』その他の著述がある。ヴァスハンドゥはこれらの書のあるものに注釈を施し、また『倶舎論』abhidharmakośa(『存在の分析』)、『二十詩篇の唯識論』viṃśatikā (『唯識二十論』)、『唯識三十頌』trimśikā、『三性論偈』trisvabhāvanirdeśa などの諸篇を書いた。
 以上あげたのはすべて、瑜伽行派 yogācāra または唯識学派 vijñānavāda の根本論書である。中でも『現観荘厳論』(漢訳されなかった)と『倶舎論』は、のちにチベットにおける仏教教学の5つの根本テキストの中に数え上げられた。ただし右にあげた年代を、40年ないし80年古くみる学説や、経歴や思想を異にしたふたりのヴァスバンドゥが実在したとする学説もある。

サーラマティ

 『宝性論』ratnagotravibhāga-mahāyānottaratantra の著者であるサーラマティ Sāramati はこのころの人である。この書は、のちに、ヴァスバンドゥに帰せられた『仏性論』などの基礎となり、またアシユヴァゴーシャに帰せられる『大乗起信論』に影響を与えた。

ナーランダー僧院の成立

 5世紀はじめグプタ王朝の援助によって、ナーランダー僧院(現在のピハール州、パトナの南東)がつくられ、次飾に発展して大乗仏教の中心地となった。

六世紀

エフタル人の侵入

 5世紀末にエフタル人が西北インドに優入した。彼らは西インドのヤショーダルマン王によって撃退された(528)が、グプタ王朝は崩壊し、インドは再び長い分裂の時代にはいった。

ディグナーガ

 唯識思想から出発し、やがて認識論と論理学の組織化に努力したディグナーガ Dignāga(陳那、480~540ころ)は、『知織論集成』pramāṇasamuccaya (『集量論』)その他を著わして、インド哲学の歴史において画期的な業績をあげ、その後の唯識派、経量部の思想に大きな影響を与えた。シャンカラスヴァーミン Śańkarasvāmin(500~560ころ)、イーシュヴァラセーナ Īśvarasena(580~640ころ)などが、ディグナーガの著書に次々と注釈を書くようになった。

中観派の分裂

 ナーガールジュナの『中論』に対しては多くの注釈がある。470~540年ころにブッダパーリタ Buddhapālita(仏護)が注釈した。やがて、ディグナーガの論理学と経量部思想の影響を受けたバーヴァヴィヴェ-カ Bhāvaviveka(清弁、500~570ころ)が現われ、『中観心論』madhyamaka-hṛdaya、その自注『思択の炎』tarkajvāla、『知恵のともしび』prajñāpradīpa(『般若燈論』)などを著わした。彼はとくにブッダパーリタを批判し、中観哲学に、論証式による弁証法を導入したため、中観派は2派に分裂した。ブッダパーリタからのちのチャンドラキールティにつながる学派を帰謬論証派 prāsaṇgika、バーヴァヴィヴェーカの創始した学派を自立論証派 svātantrika とよぶ。

スティラマティとダルマパーラ

 唯識派ではグジャラート地方のヴァラビー王国 Valabhī にいたスティラマティ Sthiramati (安慧、510~570ころ)が出て、ヴァスバンドゥの唯識論書に注釈した。しかし、ディグナーガの系統に属するダルマパーラ Dharmapāla(護法、530~561)が前者と傾向を異にする唯識理論を展開した。
 ヴァスバンドゥ----スティラマティの系統は、のちの無相唯識に、ディグナーガー----ダルマパーラの系統は、有相唯識に発展した。

パラマールタ

 パラマールタ Paramārtha(真諦、499~569)はアヴァンティのウジャインの人、546年にシナに渡り、唯識、如来蔵系統の論書を翻訳した。

七世紀

ハルシャ王

 インドはハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)によって、一時統一された(606~646)が、その勢力も長くは続かず、再び分裂した。

玄奘と義浄

 629年に唐の長安を出発した玄奘(600~664)は、16年間にわたる、西域、インドの大旅行を完遂し、645年に帰った。その間、主としてナーランダー僧院でシーラバドラ Śīlabhadra(戒賢、529~645)その他のもとで唯識思想を中心に学習した。その後、義浄(635~713)は、海路インドに渡ってナーランダーで学び、帰路東南アジアに滞在したのを含めて、前後25年間の旅行をした。
 その他、インドに渡り、その地で死んだシナ留学僧も多い。

チャンドラキールティ

 中観派ではチャンドラキールティ Candrakīrti(月称、600~650ころ)が『明らかなことば』prasannapadā、『入中論』madhyamakāvatāra その他を著わした。彼はバーヴァヴィヴェーカを批判して帰謬論証派の勢いを盛り返した。

ダルマキールティ

 ディグナーガに傾倒し、その知識論をさらに発展させたダルマキールティ Dharmakīrti(法称、600~660ころ)が『知識論評釈』pramāṇavārttika などの、いわゆるダルマキールティの七論を薪わした。彼は経量瑜伽総合学派とよばれる立場にたって、経最部の認識論を唯識に適用し、有相唯識説を完成した。デーヴェンドラブッディ Devendrabuddhi(630~690ころ)、シャーキャマティ Śākyamati(660~720ころ)、力ルナカゴーミン Karṇakagomin などが次々とダルマキールティの著書に注釈を施した。

密教の展開

 古くから存在していた招福除災の呪文は、やがて瞑想を伴った強力な呪文、陀羅尼 dhāraṇī に発展し、民衆の心を捉えた。この傾向は7世紀になって「空」の理論とヨーガの行法と結合し、密教とよばれる独立した宗乗となった。
 『大日経』mahāvairocana-sūtra や『金剛頂経』類もこのころに成立した。密教は真言乗 mantrayãna、金剛乗 vajrayãna などともよばれる。

八世紀

パーラ王朝と仏教

 8世紀中葉、ベンガルに興ったパーラ王朝 Pāla は、9世紀初頭にはガンガー河上流地域まで支配し、パータリプトラに首都を移して全盛期を迎えた。この王朝は仏教を保謹し、とくに密教はその沿下で大いに発鵬した。ゴーパーラ王(在位750~770ころ)は、マガダのオーダンタブリ僧院を、ダルマパーラ王(在位770~810ころ)はヴィクラマシラー(またはヴィクラマシーラ)僧院を建立した。とくに後者は規模壮大で、その後の仏教学の中心地となった。

シャーンタラクシタとカマラシーラ

 チベットは先にソンツェン・ガンポ王によってはじめて統一され(629)、世界史に登場している。チソン・デッェン王(在位754~797)は、763年ころインドからシャーンタラクシタ Śāntarakṣita (または Sāntirakṣita 寂護、725~788ころ)を招き、サム・エに仏教寺院を建立し(775)、はじめて仏教僧を受戒させた。このころ、シナの禅宗がチベットで勢いを得ていたが、シャーンタラクシタの死後、その弟子カマラシーラ Kamalaśīla(蓮華戒、740~795ころ)がチベットにはいり、サム・エにおいて、シナ禅の代表着、大乗和尚と対論した(792~794の間のいつか)。その結果、シナの禅宗はチベットから後退し、かわってインド仏教、とくに中観思想が受容されるようになった。同じころ、パドマサムバヴァ Padmasambhava(蓮華生)がチベットにはいって密教を伝えた。シャーンタラクシタは、チベットにはいる以前『真実要義』tattvasaṃgraha、『中観荘厳論』 madhyaṃakālaṃkāra などを箸わし、ダルマキールティに多くを負いながらも、自らの立場として中観瑜伽総合学派(無相唯識派に親縁な中観学派)を確立した。チベットにはいったのちはサム・エを中心として布教し、788年にチベットで没した。カマラシーラは大乗和尚との対論後、三篇の『修習次第』 bhãvanākrama を著わして、チベット人のために平易に仏教の修行法を解説した。また、シャーンタラクシタの前記2著に注釈もしている。

ダルモッタラその他

 知識論の領域では、シュバグブタ Śubhagupta(720~780ころ)、アルチャタ別名ダルマ一カラダッタ Arcata, Dharmākaradatta(730~790ころ)、ダルモッタラ Dharmottara(750~810ころ)が活躍した。後2者はダルマキールティの著書にすぐれた注釈を施している。なお有相唯識派の重要な学者で『知識論評釈荘厳』pramāṇavārttikālaṃkāra の著者プラジュニャーカラ・グプタ Prajñākaragupta も8世紀に屈すると思われるが、確定しない。ディグナーガの『知識論集成』の注釈者であり、かつサンスクリット文法家でもあったジネンドラブッデイ Jinendrabuddhi も8世紀の人であろう。

シャーンティデーヴァとハリバドラ

 中観派に属するシャーンティデーヴァ Śāntideva(寂天)が『入菩提行論』bodhicaryāvatāra、『大乗集菩薩学論』śikṣāsamuccaya を書いたのも8世紀であろう。
 同じころ、ハリバドラ Haribhadra は『現観荘厳光明』abhisamayālaṃkārāloka を著わした。

9世紀

密教の全盛

 7世紀末から8世紀にかけて、オリッサにおいて活離したインドラブーティ Indrabhūti は金剛乗の中に、男女交会をヨーガの最高境地とみなす実践を導入し、左道密教を発展させた。『文殊師利根本儀軌経』mahājuśrīmūlakalpa、『秘密集会タントラ』guhyasamāja-tantra などの経典も8世紀から9世紀にかけて完成され、現形を得るに至った。また、84人のシッダ siddha(成就者)とよばれる密教者たちが、秘密の教義を口伝しながら活躍をはじめた。

10~11世紀

パーラ王朝の退潮

 パーラ王朝の勢力は次第に衰え、10世紀後半にはその父祖の地ヴァレンドラを失い、現在のビハール州一帯を支配するにすぎなくなった。第十代のナヤパ-ラ(1038~1055)の時代にも、カラチュリ王カルナとの間に闘争がくり返された。有名な仏教僧アティーシャが身命を顧みずに両者の和睦をはかったのもこの時期のことであった。11世紀の中葉にはマガダ支配も名のみのものとなった。ヴィグラハパーラ三世(在位1055~1077)には三子があったが、その長子マヒーパーラニ世(在位1070~1075)と他のふたりとの間に内紛があるのに乗じ、王朝の重臣ディヴヤが王位を簒奪した。ディヴヤは有能な将軍で、その勢力を拡張し、ヴァレンドワをもその支配下においた。しかし、ヴィグラハパーラ三世の第三子ラーマパーラ RQmapAla が奮起し、劇的な戦闘ののちに、ディヴャの後継者ピーマを倒して、父祖の地ヴァレンドラを回復した。ラーマパーラは即位して第十四代の王となり、ラーマヴァティーに都を定めた。ラーマパーラ(在位1077~1120)の時代がパーラ王朝最後の輝かしい時代であるとともに、インド仏教の最後の隆盛期でもあった。このころ、ヴァレンドラにはジャガッダラ僧院があり、ヴィクラマシラーに次いで教学の中心となっていた。

プラジュニャーカラマティ

 おそらく10世紀と思われるが、プラジュニャーカラマティ PrajJAkaramati がシャーンティデーヴァの『入菩提行論』に大部な注釈(bodhicaryāvatāra-pańjikā)を書いている。彼も中観瑜伽派に属している。

ジュニャーナシュリー・ミトラ

 この時代の仏教は全般的には密教の勢力が強かったが、それにもかかわらず、経量瑜伽派、中観瑜伽派の伝統を継ぐ哲学者も続々とあらわれた。これらの哲学者たちのうちには、同時に密教者であった者も多い。
 このころ、仏教哲学に対抗する勢力のうちでもっとも強力だったのは、ニヤーヤ学派で、とくに10世紀のトリローチャナ Trilocana、その弟子ヴァーチャスパティ・ミシュラ Vācaspatimiśra(976前後、一説では841前後に活躍)が、ダルマキールティ以来の仏教の知識論を批判した。これに対して立ち上がるのがジュニヤーナシュリー・ミトラ Jñānaśrīmitra(980~1030ころ活躍)で、『刹那滅論』kṣaṇabhańgā-dhyāya、『有神論批判』Īśvaravādādhikāra その他の著作によって、ニヤーヤ学派批判を展開した。また彼は、『有形象知識論』sākārasiddhi を著わし、経量瑜伽派の立場から仏教諸理論の統一を企図した。

ラトナキールティ

 ジュニャーナシュリー・ミトラの弟子ラトナキールティ Ratnakīrti(1000~1050ころ活躍)は、独創的な著作は著わさなかったが、その師の難解大部な諸著作のほとんどすべてを平易な文章で要約し、紹介した。

ラトナーカラ・シャーンティ

 経量瑜伽派に対立し、シャーンタラクシタの確立した中観瑜伽派を代表する学者にラトナーカラ・シャーンティ Ratnākaraśānti がいる。彼は『般若波羅蜜多諭』prajñāpāramitopadeśa を著わし、仏教諸学派、とくに経量瑜伽派の理論を批判し、中観と唯識を統一した理論を展開した。彼の理論はジュナーナシュリー・ミトラによって批判されているが、チベットでは後者以上に評価されるに至った。