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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

修行の階梯

総論

 ウパニシャッド初期の哲学者ヤージュニャヴァルキヤなどが

人は行動するに従って種々のものとなる

と、(kalman)による輪廻流転を説き始めて以来、輪廻からの解脱をめざす修行論がインド哲学全般の最大の関心事となっている。ウパニシャッドでは感官を制御し、欲望を捨て、瞑想(yoga)によって精神を統一し、梵我一如の真理を直観することをすすめるが、四住期(梵行期・家長期・林住期・遊行期)などは、人の一生を梵我一如に達する4段階として設定したものといえよう。
 またジャイナ教では、霊魂(jīva)・非霊魂(ajīva)・流入(āsrava)・束縛(bandha)・制御(saṃvara)・止滅(nirjarā)・解脱(mokṣa)の七諦を説く。これは微細な物質(ajīva)が、身・口・意の三業によって霊魂(jīva)に付着し(āsrava)、霊魂を束縛(bandha)することによって、地獄・畜生・人間・天上の四迷界への輪廻がおこるゆえに、この業(karman)の流入を防止して霊魂を浄化すれ(saṃvara)ば、微細な物質が霊魂から離れ(nirjarā),その結果、完全な智慧を得る(mokṣa)、とするものである。ことに、制御・止滅・解脱の三段階が呈示されているが、これをさらにくわしく示すと、十四の階梯(guṇasthāna)になる。すなわち、

  1. 最低の虚偽の状態
  2. 激情による落下
  3. 真偽の混濁
  4. 正しい見方の確立
  5. 疑いや欲望の部分的放棄
  6. 疑いや欲望の完全放棄
  7. 思考によって弛緩を制する
  8. 霊魂の純粋な本質における最初の白い専心
  9. 専心による思考の進歩
  10. すべての激情の平静化
  11. 業の静止と専心の完成
  12. 迷いの要因の完全破壊(第二の白い専心)
  13. 破壊的業の絶滅
  14. 肉体的活動の止滅

である。
 六派哲学のなかで、段階的な修行法が比較的はっきりとうかがえるのは、サーンキヤ派とヨーガ派である。まず、サーンキヤ派では「二十五の原理」の知識を説くが、これを獲得するために、

  1. 二十五原理の思量
  2. 正師について道を聞く
  3. 聖教の研究
  4. 内苦
  5. 外苦
  6. 天苦を離れて解脱を願望する
  7. 善友を得て修行や研究に慣れる
  8. 師友に施しをして道を求める

という8項目を完成し、最後に禅定によって解脱を得る、とする。また、禅定による観法の進展を六段階に分ける。

  1. 思量位(五元素の過失の遠離)
  2. 持位(十一器官の過失の遠離)
  3. 如位(五要素の過失の遠離)
  4. 経位(自我意識と八自在の過失の遠離)
  5. 縮位(統覚機能の過失の遠離)
  6. 独存位(根本原質の過失の遠離)

ヨーガ派で特に有名な修行法は八実修法である。これは、

  1. 五戒を保つ(yama, 制戒)
  2. 内外の清浄・満足・苦行・学習・最高神への専念(niyama,内制)
  3. 蓮坐・勇士坐などの坐法(āsana)
  4. 吸気と呼気の調制(prāṇāyāma, 調息)
  5. 五感を制して感覚を対象から分離する(pratyāhāra, 制感)
  6. 心を身体の一部や外界の一対象に結びつける(dharaṇa, 凝念)
  7. 凝念の対象と表象が一致融合する状態(dhyāna, 禅定)
  8. 心が空虚になり、禅定の対象のみ輝く位(samādhi, 三昧)

の8段階をいう。(1)から(5)の外的段階を経過して、(6)・(7)・(8)の内的段階を登りつめ、ついに、心は根本物質のなかに帰入して輪廻は消滅し、肉体の死とともに完全な解脱を達成するわけである。

原始・アビダルマ仏教

 釈尊はカースト制を否定し、行ないが人の尊卑を決めると説いたから、釈尊の教説はいずれも行為に関するものであり、したがって、修行に関係しない教説はないといってよい。弟子たちもその主旨をうけて、あらゆる教説を段階的に整理し、仏教を修行道として体系化しようとした。苦・集・滅・道の四諦も、正見ないし正定の八正道なども、苦から入って道で終わる観法あるいは正見を手始めに正定へと深化する道と考えたことは、論書の修行道によってみれば明白である。しかし、すべての教説をここに修行の階梯として呈示するわけにいかないので、その代表的なものをあげれば、阿含・ニカーヤでは、三学四双八輩であろう。
 三学とは戒・定・慧の三を指し、この順に修行が進んで悟りに達するとするのである。戒学とは仏・法・僧の三宝に帰依して正信をおこし、身に五戒などをそなえて規律ある生活を営むこと。戒の実践によって悪を離れるから、心に後悔や不安がなく、しだいに心身の平安を得て禅定に入る準備が整う。定学とは、数息観四念処観・四無量心三解脱門など準備段階を経て四禅を実習するものである。これによって、心に寂静(śamatha, )と真理洞察(vipaśyanā, )が達成され、正しい智慧が得られるわけである。かくして、智慧によって煩悩を断つことを慧学という。このような修行によって、煩悩が断たれていく段階を4つに区分し聖者の位としたものが、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果である。この果に向かって修行中のものを向といい、あわせて「四向四果」または、「四双八輩」という。
 預流果とは、仏教の流れに入って再び退堕しない位をいい、三結身見戒禁取見)を断ったものの入る位。一来果とは、一度だけこの世に帰るもののことで、三結を断ち、貪瞋癡三毒が薄らいできた位。不還果とは、死して天界に生まれそこで悟りを開くのでもはやこの世に還らないもののことで、五下分結(貪・瞋・身見・戒禁取見・疑)を断った位。第4の阿羅漢果は、一切の煩悩を断って修行を完成したもののことで、この世で涅槃に入る位である。
 このほかに、修行者の機根に応じて七種人が説かれることもある。すなわち、信根のすぐれたものは、随信行より信解脱に進み、慧根のすぐれたものは随法行より見至にいたる。そして、それから後は、信解脱も見至も身証慧解脱倶解脱と進むとするものである。
 さて、三学および四双八輩は、南方上座部に踏襲されて心清浄道となったが、北方の説一切有部では、これに代わって、見・修・無学の三道を説いている。身心遠離・喜足少欲・四聖種の三浄因を具備したあと、五停心別相念住総相念住(以上を三賢という)と進んで、無常・苦・空・無我の共相による法念処観を修すると、発火直前の薪のように心が煖くなる(位)。これより、四聖諦の十六行相による観察を修して、位・位・世第一法位と進む。頂位とは、動揺があり不安定な善根のうちで最上の善根を生ずる位で進むか退くかの境目にあたる。忍位は、四諦の理を認証して不動の善根を得た位で、下忍・中忍・上忍を分かち、中忍位で四諦十六行相を一つずつ減じていく。世第一法位は、上忍位と同じ欲界苦諦の一行相を観じて世間すなわち有漏法中の最上の善根を生ずる位。かくして、見道位に入ると、八忍八智の十六刹那に四諦十六行相を観察して迷理の惑を断ち、聖道の果を得る。このとき、迷事の修道所断の煩悩)を未断のものは預流果につき、欲界の六品について断じたものは一来果につく。欲界の迷事の惑を全部断じたものを不還果といって、欲界にはもはや還帰しない。不還果を得たものに七種があって、中有において涅槃に入るもの(中般)、色界に生まれてまもなく涅槃に入るもの(生般)、色界で修行するもの(有行般)、色界で修行を怠り久しうして涅槃するもの(無行般)、色界よりさらに上方に転生を繰り返すもの(上流)、欲界よりただちに無色界に行って涅槃に入るもの(行無色)、および欲界の現身のまま涅槃に入るもの(現般)である。色界初禅の迷事の惑の第一品より無色界有頂の第九品の惑までを断じて尽智を生じたものを阿羅漢果という。この果にも、退法・思法・護法・安住法・堪達法・不動法の六種阿羅漢を立てる。阿羅漢果を獲得するともはや学ぶべきものがないというので無学道といわれ、それ以前の初果より阿羅漢向までを修道という。
 大衆部系に属する説出世部の『マハーヴァストゥ』には、『般若経』や『華厳経』の十住思想の前段階ともいうべき、本生の菩薩(すなわち釈尊)の悟りにいたる10段階が説かれている。

  1. 難登
  2. 結慢
  3. 華荘厳
  4. 明輝
  5. 広心
  6. 妙相具足
  7. 難勝
  8. 生誕因縁
  9. 王子位
  10. 灌頂位

である。 また『菩薩本業経』は、さらに発展して、

  1. 発意
  2. 治地
  3. 応行
  4. 生貴
  5. 修成
  6. 行登
  7. 不退
  8. 童真
  9. 了生
  10. 補処

の十住を説き、『般若経』『華厳経』の十住説、すなわち、初発心、新学、瑜伽行、生貴、方便具足、清浄意楽、不退転、童真、王子、灌頂に一歩近づいている。これら三書の共通点を見るに、『マハーヴァストゥ』の第8生誕因縁と『菩薩本業経』の第4生貴が、また、『マハーヴァストゥ』の第9王子位と第10灌頂が『華厳経』の第9王子と第10灌頂にそれぞれ対応していることがわかる。このように、『マハーヴァストゥ』の十地説には、間接的にせよ、大乗の修行道に連なる修行の階梯が示されていることは注目してよいであろう。

大乗仏教

 『般若経』を中心とする初期大乗経典には、発菩提心不退の位、無生法忍童真灌頂一生補処などの部派仏教に見られない階位が教説されているが、組織的な階位としては、自性行・願性行・順性行・不転性行の四行、初発心菩薩・新学菩薩・不退転菩薩・一生補菩薩の四種菩薩、あるいは、凡夫地・声聞地・辞支仏地・(菩薩地)如来地の四地(五地)、これをさらに展開した「十地」(凡夫位の乾慧地と性地、声聞位の八人地・見地・薄地・離欲地・已作地・辞支仏地・菩薩地・仏地)などをあげることができる。このうち、「共の十地」の第1の乾慧地(śuklavidarśana-bhūmi, 浄観地)とは、禅定の水がないので乾いたまま作用しない智慧の状態をいい、性地(gotra-bh.)とは、声聞・独覚・菩薩の種姓が決定する位。八人地(aṣṭamaka-bh.)は諸法実相を観じて無生法忍を悟る位で、声聞道の「見道」に相当する。これより聖者の位となる。見地(darśana-bh.)は、無生法忍を得て不退転となった位で、声聞道の預流果に相当する。薄地(tanu-bh.)は不退転地を過ぎて成仏に向かう途中の段階。三毒が薄くなる一来果に相当する。離欲地(vītarāga-bh.)は五神通を獲得した位で、不還果に相当する。已作地(kṛtāvī-bh.)はなすべきことが成就したという意味で成仏が決定した段階。声聞道では阿羅漢果にあたり、声聞の修行はここで終わる。それ以上求める心がないからである。辞支仏地(pratyekabuddha-bh.)は、独覚をめざしたものが修行を完成する位であり、菩薩地(bodhisattva-bh.)とは、菩薩が六波羅蜜を修行する位である。そしてこのあと仏地(buddha-bh.)にいたって成仏するのである。
 このような、声聞道からの展開としての成仏道とは別に、釈尊の前生における菩薩修行から展開した「不共の十地」(歓喜地・離垢地・明地・焔地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地・法雲地)がある。これには『大品般若経』の十地、『華厳経』の十住、および十地の三種がある。
 これは、さきの四種菩薩のくわしくなったものとみなすこともできよう。

1 歓喜地(pramuditā-bh.)
 大乗の正知を得て歓ぶ位。
2 離垢地(vimalā-bh.)
 十善戒によって心の垢を離れる位。
3 明地(prabhākarī-bh.)
 陀羅尼を得、智慧が明らかになった位。
4 焔地(arciṣmatī-bh.)
 その智慧によって煩悩を焼く。
5 難勝地(sudurjayā-bh.)
 微細な煩悩は、制圧しがたい。
6 現前地(abhimukhī-bh.)
 さらに修行が進むと縁起の智慧が現われる。
7 遠行地(dūraṃgamā-bh.)
 三界の煩悩を断じ、三界を遠く離れる位。ここでは、七地沈空の難といって、あまりに深く空に達しすぎて空より脱することができなくなる。そこで十方の諸仏の勧誡によって第八地に進む。
8 不動地(acalā-bh.)
 もはや声聞・縁覚の位を超過して、自然に修行が進展する。これを無功用の行という。不動地とは無分別智が煩悩に惑わされることなく(=不動)自由にはたらく位をいい、
9 善慧地(sādhumatī-bh.)
 自由自在に説法教化ができる位をいう。
10 法雲地(dharmameghā-bh.)
 法身を完成し、虚空のごとく際限ない身となって大雲のごとき智慧を有する位である。

以上の十地を中心に、『瓔珞経』では菩薩の階位を52位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚)にまとめているが、このほかにも、『仁王経』の51位、『華厳経』の41位、『梵網経』の40位、さらには『首楞厳経』の57位などがいずれも十地を中心として階位を組んでいる。
 唯識宗の代表的論書である『成唯識論』には、有部の修行道に似た五位を説き、そのなかに十地などの41位を組みこんでいる。すなわち、資糧位において、六波羅蜜、四摂法などを修習するが、この位のなかに十住・十行・十廻向の30心があると説き、加行位では、四尋伺観によって、諸法を名・義・自性・差別の4に分類し、これらを皆、仮有実無と尋思し、さらに四如実観によって、さきの四分類をたしかに認証して、分別の煩悩を伏除し、唯識に悟入するのである。この位の修行のあいだに一大阿僧祇劫を経過するという。第三の通達位は、無漏の正智を生じて真如に通達する位で、十地のうちの初地に入ることでもある。このとき、所知障煩悩障種子を断ち、人・法二空の真如を証見するので、見道ともいう。修習位とは、十地の位を二大阿僧祇劫かけて経過するあいだに十波羅蜜を修し、十重障を断ち、十真如(遍行・最勝・勝流・無摂受・類無別・無染浄・法無差別・不増減・智自在所依・業自在等所依真如)を証する。究竟位とは、十地を満たして四智四涅槃を証した仏果の位(妙覚位)をいう。