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にほんぶっきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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日本仏教

最初期

 かなり古い時期から、仏教は、当初は渡来人を中心に、やがて民間に広まっていたが、公式の伝来は欽明天皇の代(538年ないし552年)とされる。その後、蘇我氏の崇仏と物部氏・中臣氏の排仏の争いがあったが、聖徳太子によって仏教の受容が確定し、日本に仏教が根を下ろすことになった。
 聖徳太子は仏教思想を取り入れて「十七条憲法」を制定し、仏教の経典を詳しく学んで『法華経』『維摩経』『勝鬘経』に義疏(注釈)を書いた。また隋と国交を結んで留学生を大陸に送り、文化の中枢で直接仏教を含むその文化を学ぶ道を開拓する一方、四天王寺などを建てて病人や貧民を救った。
 続いて、法隆寺中宮寺などが建てられ、仏像・仏画などの諸芸術作品が、いわゆる飛鳥・白鳳の美をつくりあげた。大化改新には仏教興隆の詔(みことのり)が発せられて、多くの僧尼が活躍し、種々の法会(ほうえ)が盛んに行われた。このいわば上からの国家仏教の性格は、続く奈良仏教において頂点に達する。なお、仏教と政治との癒着は、時代により強弱はあっても、日本仏教には現在に至るまできわめて濃い。

奈良仏教

 この時代は中国仏教の黄金時代に対応し、中国に成立した諸宗派が次々と伝えられて、いわゆる南都六宗が成立した。

  1. 三論宗 入唐して吉蔵に学んだ高麗僧慧灌が、すでに推古天皇の時代に来日して広めた。その高弟の智蔵、智蔵の弟子の道慈智光がこの教えを深め、大乗仏教の基礎学として学ばれた。
  2. 法相宗 道昭から玄昉に至る多くの学僧が入唐して学び、帰国後、藤原氏の氏寺の興福寺で多くの弟子を教えたためもっとも栄え、その伝統は法隆寺などに残って今日まで続く。道昭の弟子に行基がおり、諸国を巡歴して大いに社会事業に尽くした。
  3. 成実宗 智蔵が伝え、三論宗の付宗となる。
  4. 倶舎宗 法相宗の付宗として広く学ばれ、また仏教学全体の基礎としての学究は、現在も継承されている。
  5. 律宗 唐から来日した華厳の学僧の道璿が四分律宗を伝えたのに始まり、鑑真が来日して、完成した律を教え、東大寺の戒壇において聖武天皇をはじめ400余人に戒を授け、のち唐招提寺を戒律の根本道場とした。
  6. 華厳宗 道の伝来のあと、直接に法蔵から学んだ新羅の審祥が来日して広まり、その第一の弟子が良弁であった。華厳の理念に基づいて東大寺の大仏(毘盧遮那仏)が建立され、聖武天皇の帰依(きえ)を受けて全国の国分寺を従えた。

 以上の6宗は、いずれも学問的な色彩が濃く、また1人で2宗以上を兼学し、寺も諸宗を兼ねることが普通で、仏教は鎮護国家を掲げて密接に政治と結び付いた。

平安仏教

 中心となる最澄空海も、京都に都を移した桓武天皇の親任を得て、新しい仏教を開いた。
 最澄は純粋な求道者の性格が強く、すでに早く天台を学び、奈良の都を離れて比叡山に籠り、のち勅許を得て入唐、天台をはじめ密・戒・禅の四宗を相承し、帰国して叡山に四宗合一の天台法華宗を創立した。このような総合的な学風は上述の一乗思想に連なるもので、中国の天台とは異なって、日本仏教の特徴をよく表している。しかし、この天台一乗の立場は、奈良仏教を代表する法相宗の三乗的立場と衝突し、法相宗の徳一との間に盛んな論争が繰り広げられた。最澄はさらに山上に大乗戒壇を設け、「山家学生式」を制定して大乗菩薩僧の養成を始め、奈良の戒壇と争った。これから、最澄の『顕戒論』が生まれる。大乗戒壇は最澄の没後に公認され、ここに小乗律によらずに、いわゆる円頓戒によって多くの僧が生まれることになった。天台宗には円仁円珍という優れた後継者が現れ、いずれも長期間入唐して学び、帰国後、主として密教(天台密教・台密)を教学の中心とした。
 空海は最澄とともに入唐し、長安に長くとどまり、恵果から真言密教を学んでから、多くの経巻や仏具を携えて帰国し、真言宗を開いた。とくに嵯峨天皇の親任が厚く、京都に東寺高野山金剛峯寺を建てて真言密教(東密)と同時に鎮護国家の根本道場とした。盛んに加持祈祷(かじきとう)を行って人々の心をとらえる一方、奈良の諸宗とも協調し、『十住心論』などを著して現実主義的色彩の濃い即身成仏の教義を確立した。空海はまた書や文芸に秀でて多彩な文化活動に従事し、綜芸種智院を開いて一般の子弟を教育したほか、諸国を巡って社会事業や教化活動を振興した。
 真言宗は、平安の末期に覚鑁が出て新義真言宗を開き、さらにのち智山(京都智積院)と豊山(奈良長谷寺)の2派が生まれた。これに対して、従来の真言宗を古義真言宗とよぶ。
 平安仏教は貴族の帰依と保護を受け、寺院の造営、祈祷(きとう)や法会が盛んであり、貴族からの出家者も多かったところから、一般に貴族仏教とよばれる。その結果、僧位僧官が世俗の権威と絶えず密着していた。なお、寺院は貴族から荘園(しょうえん)の寄進を受け、逆にその荘園を守るために、僧兵を蓄え、それはやがて僧兵の横暴を招いて、ついには寺が一つの権勢の中心にかわっていった。
 仏教思想が当時の文学などに多く影響していることはよく知られている。それがしだいに民衆化していくなかで、平安中期の末法思想が、当時の飢饉(ききん)、大火、地震などによる社会不安と一致して、人心を強くとらえ、衰えた弥勒(みろく)信仰にかわって、阿弥陀信仰が栄えていった。それは、ひたすら念仏によって極楽浄土への往生を願うもので、市聖(いちのひじり)とよばれた空也、『往生要集』を著した源信、華厳思想と結び付けて融通念仏宗を開いた良忍などにより急速に拡大していった。

鎌倉仏教

 真の意味で仏教が民衆とのつながりが深くなる。すでに仏教伝来以来600年余を経て、ここにようやく日本仏教ともいうべきものが誕生、成立した。民衆が仏教を求める一方、宗教的天才が出現してこれにこたえた。
 平安中期から栄えた浄土信仰の系統から、純粋な浄土宗を確立したのは源空(法然)である。彼は比叡山に登り、南都に学んで、智慧第一の法然房とよばれながら、それらの智慧、知識、学問による仏法ではなくて、善導の『観経疏』に従い、一心に弥陀の名号(みょうごう)を念ずること(一向専修の念仏)こそ、浄土に往生する正しい方法(正定業)であるとし、それを『選択本願念仏集』に結集してひたすら称名念仏を勧めた。皇室・貴族や一般民衆にまで急速に広まったこの宗は、既成仏教の弾圧を受け、ついには念仏停止(ちょうじ)の迫害を受けて、法然は土佐国(高知県)に流された。法然没後、浄土宗は門下に異議が生じて諸派に分かれ、さらにその一派から一遍時宗が出た。
 信という一筋の道をどこまでも徹底させたのが親鸞である。比叡山に学ぶこと20年、のち法然に傾倒して、法然流罪のとき越後国(新潟県)に流され、赦免ののち長く東国で布教活動を行い、この間に『教行信証』を完成し、浄土真宗の基礎を確立した。すでに肉食妻帯・非僧非俗を宣言し、信者を同朋同行とよんで、一般の民衆とともに、ひたすら弥陀に帰依し、これまでの称名を突き抜けて、弥陀への報恩にまで高まる絶対他力の信を貫いた。その語録を弟子がまとめた短編の『歎異抄』ほど、純粋で激しく深い仏教書はない。
 このころ、南都奈良には、法相宗の貞慶、華厳宗の高弁(明恵)が出て、念仏の流行が仏道修行や持戒の軽視につながることに反対し、厳しい道心による厳格な修行を自ら実践し、また弟子に教えた。
 鎌倉仏教に新機軸を画したのは禅宗である。禅はすでに奈良時代以来しばしば伝えられ、最澄も4宗の一つに数えているが、日本に禅宗が確立したのは、栄西による。彼は二度も入宋(にっそう)して禅のうちの臨済宗を学び、日本に伝えた。帰国後、『興禅護国論』を著し、鎌倉・京都などを巡って禅を広めた。一時は比叡山の圧迫もあったが、厳正な坐禅(ざぜん)の修行を実践して、新時代の新興勢力である武士の心を養い鍛えると同時に、しだいに文人にも浸透して、後の禅文化を導き出す端緒を開いた。
 栄西においてなお天台や密教との妥協がみられた禅宗は、道元によってまったく純粋な禅に結晶した。若くして入宋した道元は、とどまること4年余、最後に天童如浄に巡り会ってそのもとで修行し、印可を受けた。帰国後ただちに『普勧坐禅儀』を著して、坐禅の真義を明らかにし、その実践を強調、京都深草と宇治に約10年、越前国(福井県)の永平寺に約10年住して、『正法眼蔵』の大著を書き続け、厳しい実践を休まず、行住坐臥すべて坐禅に連なることを教えて、只管打坐(しかんたざ)を唱え、優れた弟子の養成に努めた。道元の禅宗は曹洞宗とよばれ、道元の語録を高弟の懐弉が筆録した『正法眼蔵随聞記』が広く読まれている。のち瑩山紹瑾が出て『伝光録』を著し、総持寺をはじめ多くの寺を開き、一般民衆にも禅を普及させた。
 鎌倉仏教の最後に日蓮宗が現れる。これまでの宗祖・開祖がすべて京都ないし京都以西の出身であるのに対し、日蓮だけは関東の出身で、そこで活躍した。日蓮ははじめ真言密教を学び、やがて比叡山に登り、天台を究めて『法華経』第一主義を固め、南都・高野山を巡ってのち故郷に帰り、安房(千葉県)清澄(きよすみ)山頂で「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を高唱して、立宗を宣言した。この時代にはすでに浄土・禅・密などの諸宗が地位を築きつつあったが、日蓮はそれらを激しく攻撃して、ひたすら『法華経』の流布を図った。その意図は国の将来にまで及んで、主著『立正安国論』が書かれたが、あまりにも戦闘的なその態度のため、伊豆(静岡県)に、また佐渡に流されたほか、数々の法難を受けた。晩年はその態度も寛容に変わり、甲斐(山梨県)身延山に籠(こも)って草庵(そうあん)を開いたが、やがて江戸池上本門寺で没した。門下に六老僧が名高く、関東だけでなく、まもなく京都にも進出して多くの信徒を得たが、本来の激しい態度からしばしば論争を生み、さまざまな分派が生じた。とくに法華宗日蓮正宗などが、その有力なものであり、また熱心な在家集団も多い。

室町以後の仏教

 鎌倉新仏教は人々の宗教的欲求にこたえて、短時日の間に民衆のなかに広まった。
 臨済禅は足利幕府の庇護(ひご)を受けて、京都と鎌倉の五山を中心に栄え、五山文学を生み、また茶道、華道、絵画(とくに水墨画)、芸能、造園、料理、建築など文化の諸方面に深い影響を及ぼした。この系統に、室町時代には南浦紹明(大応国師)、宗峰妙超(大燈(だいとう)国師)、夢窓疎石関山慧玄虎関師錬など、江戸時代には沢庵宗彭至道無難、臨済中興と仰がれる白隠慧鶴盤珪永琢などのほか、合理的精神により日常生活にその教えの実践を説いた鈴木正三が出る。
 曹洞宗には、江戸時代に卍山道白面山瑞方などが現れて教えを正しており、大愚良寛もこの宗に属する。
 なお、臨済禅の別派の黄檗宗が江戸時代に隠元によって明から伝えられた。これには中国風の色彩が強く、この宗に出た鉄眼道光は「大蔵経」の新刻を完成したほか、飢饉(ききん)には難民を救って人々の敬慕を集めた。
 浄土宗は、法然の没後、諸派に分かれたが、江戸時代には徳川氏の宗旨となって栄え、江戸増上寺と京都知恩院とがその中心となった。  浄土真宗は8代目の蓮如によって飛躍的に発展し、ついには日本最大の宗派となり、戦国時代にはしばしば一向一揆を起こして武将を脅かした。そのために、徳川幕府は本願寺を東西に二分してその勢力を押さえた。
 天台宗には徳川家康の寵を受けた天海が出て、寛永寺を開き、日光山を再興したほか、「大蔵経」を開板(板本の作成)した。これが日本の「大蔵経」完刻の最初である。
 真言宗には、江戸時代に飲光慈雲尊者)が出て、正法律を唱え、またサンスクリット語を研究して大著『梵学津梁』を著した。
 また江戸時代には、仏典の文献学的研究もおこり、普寂鳳潭法幢富永仲基中井竹山中井履軒などが知られる。
 徳川幕府はキリシタン禁制のために、厳重な鎖国を敷き、その反作用として仏教を保護した。しかしそれも、徳川家を頂点とする封建制度を維持する一環として仏教を利用したにすぎず、いたずらに寺院制度だけがそびえて、生気あふれる仏教活動はあまりみられない。各宗派は本山―末寺、寺―檀家(だんか)の関係を厳しく守り、個人の信心よりも、家の宗門に縛られることになった。他方、宗派内では宗学を確立して発展させると同時に、寺子屋を開いて一種の国民的な教育機関をつとめた。
 明治政府は、初め神仏分離から廃仏毀釈にまで進んだが、日本人の心に根を下ろしていた仏教は、現代もなお日本人の風俗習慣や思考のどこかに、程度の差はあっても、かなり深く宿されていることが多い。これは、日本に伝来し繁栄したのが、ゴータマ・ブッダの説に基づく阿含仏教ではなく、まさしく大乗仏教であり、しかもそれは文学・絵画・彫刻・建築・音楽などにわたる芸術一般から、言語・習俗・儀礼・技術・政治などを網羅した大乗文化ともいうべきものであって、それにまったく席巻されたまま継承されたことによる。散発的なブームらしいものがあっても、一般的にみれば、現代の日本人の仏教思想は潜在していて、あまり目だつことがなく、いわば切実と無関心との間をさまよっていて、後者から、一部に葬式仏教の貶称(へんしょう)さえある。
 最近は、新宗教といわれるものが、とくに日蓮系統(たとえば創価学会、霊友会、立正佼成会など)から、ほかに天台や真言系統から多く出て、多数の信者を獲得している。仏教系の信者数は9549万2812(『宗教年鑑』平成14年版)。各宗派の信者数等はそれぞれの項を参照。

特徴

 日本仏教は漢訳仏典をそのまま用い、この点は中国やチベット仏教と相違する。また平安初期ごろまでは、中国や朝鮮仏教と同じく、諸宗兼学が常態であったが、とくに鎌倉以後は特定の一宗に凝縮され、結晶して深化したとはいえ、仏教全体への展望は失われた傾向が強い。明治以降に諸宗の連帯が深まり、また仏教学は著しく進展した。